アカデミー賞授賞式でのウィル・スミスの平手打ちを見て忠臣蔵を思い出した。嫌がらせを言ったりしたりする人が居て、それに耐えられなかった相手方が暴力で応える構図がそっくりだ。しかもどちらも晴れの舞台で起きた事で、その主催者と大衆世論を入れた四者の立場から事件を視ると色々な考察が出来そうだ。
まず、冗談はどこまで許されるかという問題がある。今度の事件でも司会者のクリス・ロックは軽い冗談で、彼自身の価値観では許される範囲だと思ったのだろう。相手が少しでも傷つくのはダメだとなると、ポリコレのような事になる。ポリティカル・コレクトネスの略で、ちょっとでも人が不愉快に思う言葉を排除しようという思想らしい。性同一性障害に悩む人に失礼だから、父や母、息子や娘、夫や妻、という言葉を使ってはいけないという運動にまで発展しているとか。流石にそれは行き過ぎと思う。
嫌がらせを受けた側の暴力の程度も問題だ。刀で切りつけるのはやり過ぎだとしても、軽く頭をチョンと小突くくらいならどうか。妻の容姿を侮辱された心の痛みと、平手打ちで受けた頬の痛みと、どちらが大きいかと言われれば前者の方がより後まで尾を引きそうだ。
いずれにしても事件が起きた場所の主催者は、その場を汚された事に怒るから暴力という形で表面化させた者を罰する。江戸幕府もそうしたし、映画芸術科学アカデミーもその方向で検討している。
世論で言えば、アメリカで賛否両論と言われるのに対し、忠臣蔵では吉良の擁護論が全くないのが不思議だ。そもそもあの事件はどうやって大衆の知る所になったのか。幕府だって城内の不祥事を公にはしたくなかったろう。もしロシアのクレムリンで何らかの刃傷沙汰が起きたとしたらそれが外に漏れる事はあるのだろうか。
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