セレナ・ウィリアムスの最後の試合になるかも知れない試合を見逃す訳にはいかなかった。今大会第二シードの選手に競り勝った時にはまだまだと思わせたが、やはりもうすぐ満41歳という年齢のせいか、三回戦で力尽きた。それでもセットを一つ奪い、最後も5回のマッチポイントをしのぐ頑張りには心から拍手を送りたかった。最後の最後まで勝利を決して諦めず全力を尽くす執念を見ると、スポーツの世界には潔い負けというのは理論上存在し得ないのかと思う。
というのはその前にNHKの将棋トーナメントで潔い負けを見ていたからだ。最終盤、相手玉が詰むか詰まないかの局面になった。長手数の詰みがあるかどうか、解説者も頭をひねる。王手を続けて相手の間違いを期待するのも一つの戦術であったろうが、それは相手方に失礼だと思ったのか、大長考の末出口六段が指したのは受けの手だった。相手玉に詰みがない事を読み切ったのだろう。そして相手の次の一手で投了したのだった。実に潔い負け方だった。
同じ日に放送された囲碁の方は、潔さそうで疑問が残った。AIの勝率予想では2%と苦戦が続く後手。しかし大きな石が取られた訳でもなく、盤面は微差らしい。AIは間違いをしないという前提で勝率をはじくから数字上2%でも小さなミスで数目程度はひっくり返る。ヨセを打ち進め、後は駄目詰めかと言う段になって突然投了してしまった。プロなら読み切れる一目二目の差だろうが、素人はそれを知りたい。あそこまで打ったのなら恥を忍んで並べて欲しかった。
さて、スポーツは戦争を模擬したものと言われる。スポーツに潔い負けが存在しないなら戦争にも潔い負けは存在しないのだろう。強いて挙げれば日露戦争の時のロシアはどうか。ウクライナでもロシアが潔い負け方をしてくれればよいのに。
0 件のコメント:
コメントを投稿