二人の宗教家がいたとする。一方はきらびやかで贅沢な服装をし、片方は質素で慎ましやかな服装をしていたらどちらをより偉大な宗教家と見なすだろうか。文鮮明とダライ・ラマを見比べて思いついた設問だ。金満家のイメージは宗教家に胡散臭さを感じさせる効果しかないように思える。イエスは粗末な布切れしか身に纏っていなかったろうし、釈迦は大金持ちの裕福な境遇を敢えて捨て苦行に身を投じた。
元々宗教とお金は縁遠いものの筈なのに、大きなお寺の本堂の中に入ると疑問が湧いて来る。そこでは天井から豪華な金の飾り物がぶら下がり、訪れた人を圧倒する。そもそもお寺の建物そのものが相当にお金の必要な規模と仕様で出来ている。そういえばお葬式にいらっしゃるお導師様の服装は決して質素なものばかりではない。時には金の刺繡の入った威風堂々としたお召し物の方もいらっしゃる。確かに乞食のようなみすぼらしい格好でお経を読まれても有難くないのかも知れない。いやいや、もしイエス本人が来てくれて、たとえ服装はみすぼらしくともその威厳に満ちた面持ちで故人の冥福を祈ってくれたなら、それが一番の供養になりそうだ。
要するに外見でごまかすのは自信のなさの表れではないか。教団を組織化し拡大しようとするのも同じメンタリティーによるものに思える。ミラノやケルンの大聖堂はよほど大きな教団組織を形成し、多くの寄進がなければ不可能だが、そういうことをイエスが望んでいたか甚だ疑問ではある。親鸞は教団の組織化には全く興味がなく「弟子は一人も持っていない」とか「私が死んだら遺体は鴨川に捨てて魚の餌にせよ」とか言ったと伝えられ、浄土真宗の今の隆盛は蓮如に負うところが大きい。東西本願寺の大伽藍を見たら恐らく親鸞は腰を抜かすに違いない。
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