山上容疑者の母上は教団を信じて多額の財産を献金した。神を信じる者ならそんな事は序の口かも知れない。旧約聖書にはアブラハムが神の求めに従って大切な跡取り息子を生贄として捧げる話が書かれている。その息子はアブラハムが百歳にしてようやく授かっており、秀吉にとっての秀頼以上に可愛かったに違いない。因みにアブラハムには本妻サラが許した妾との間に最初の子がいた。子の出来ないサラが家系の維持のためしたことで、その子がアラブ人の起源となる。さて、本妻との間にようやく出来た嫡男イサクは父と一緒に祭壇作りを手伝わされ、まさか自分が生贄になるとは思わず「お父さん、たきぎと火はあるけど、肝心の子羊はどこにいるの?」と尋ねたりする。
アブラハムがそんな事をしたのは神の声を直接聞いたからだ。幸か不幸か、信心の深くない私に神が直接話しかける筈もなく、神を信じるか否かの厳しい試練に遭遇する事もない。ただ、何かを信じるか、と言われれば恐らく私は科学を信じている。各種の気象情報を元に科学が明日は雨になると予言すれば、それを信じて出かける時には傘を持参する。そしてもう一つ信じているものに「お金」がある。「一万円」と書かれた小さな紙切れは物を包むにも、鼻をかむにも、尻を拭くにも、燃やして暖を取るにも、殆ど役に立たないが、その魔力を信じて、それを得るためなら一日中汗水流して働く事を厭わない。実際その紙切れは、それを渡すと美味しい食事をくれたり、体をマッサージしてくれたりする。私以外の周りの人もその魔力を信じているからに違いない。
現代人がお金を信じあんな紙切れの為に右往左往するのを古代人が見たら不思議に思うだろう。丁度我々が人々を神が支配する中世キリスト教世界を不思議に思うように。
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