2022年8月9日火曜日

神の言葉:トライアングル第778回

 人はどんな時に神の存在を意識するのだろうか。何か奇蹟を目の当たりにした時だろうか。神の声を聴いた時だろうか。神の声を聴いてアブラハムは我が子を捧げる決心をし、マホメッドは新しい宗教の開祖となった。山上容疑者の母上が多額の献金を決心したのも神の声を聴いたからだろうか。

私は神に何かお願いをする事はあっても、神から何かをしろと言われた事がない。恐らく「お前なんかに声を掛けても仕様がない」と相手にされていないだけなのだろう。だが、聴いた事はなくとも山上容疑者の母上が聴いたのが神の声ではなかった事だけは朧気ながら分かる。何故ならお金は俗世でしか意味を持たず、神が要求する筈もないからだ。

声を聴いた事はなくとも、神の存在を意識する事はある。数学の美しい式や定理を見た時だ。それは一種の奇蹟を見るに等しい。数学の最も基本となる01iとπとeの五つの数値が簡単な一つの式に納まっているオイラーの等式はその代表だ。映画にもなった「博士の愛した数式」でも紹介された。その単純さと完璧さは奇蹟としか思えない。

その他、全ての自然数を足し算で表した式の値が、全ての素数の掛け算で表した式の値に等しい、なんて言う式も不思議を通り越して感動を呼ぶ。ガウスの作図定理は「素数pがフェルマー素数の時、正p角形が定規とコンパスだけで作図できる。」と言うものだ。数字の議論が図形の議論とつながっているなんて神の仕業としか思えないではないか。

神が何かを語るとしたら屹度それは数学の言葉に違いない。残念ながら私はその言葉を理解するだけの能力がない。世の中には数学の難問に挑戦し数学を極めて、精神を病んだ人が沢山いる。ひょっとしたら彼等は神の声を聴き、自らを神に捧げたのだろうか。

0 件のコメント:

コメントを投稿