2023年3月28日火曜日

WBC:810

 先週の日本列島は野球一色に染められたようだった。準決勝、決勝の勝利はあれ程見事なシナリオは三谷幸喜でも書けないのではないかと思われるような展開で、本来ならもっと盛り上がって良い筈の金曜日のゴールデンアワーに行われた日本対ウルグアイのサッカーが色褪せて見えた。期待通りの、いや期待を上回る活躍を見せた選手達も、史上最強との前触れに大きなプレッシャーがあったであろう栗山監督の見事な統率も絶賛されて当然だ。

現場の活躍と比較して、大会関係者の方はどうだっただろうか。大会期間中不思議だったのは、1次ラウンドで日本戦以外の試合が全く放映されなかった事だ。同じ日の同じ時刻に行われたオープン戦は放映されていたのに。他国チーム同士の試合の様子はニュース映像で見るしかなかったが、その時の観客席はガラ空きだった。欧州や豪州から遠路はるばる日本にやって来たのに無観客に近い状態で試合をさせるなんて、そのチームに失礼だとは思わないのだろうか。私が大会関係者だったら、入場券の売れ行きをチェックし、不調な試合については縁故知人を総動員して観客席を埋める努力をしただろう。それ以前に、日本チームの史上最強ぶりを喧伝するだけでなく、他国のチームがどんな魅力を持っているのか、例えばチェコのチームのメンバーがいかにユニークな経歴を持っているのかなどを紹介し、関心を集める工夫をしただろう。

それでも日本での1次ラウンドの観客総数は過去最多の36万人強だったそうだ。日本戦が全部で4試合あり、その全てがほぼ満員だった事を考えると、残りの16試合はトータルで15万人程度集めたに過ぎない。侍ジャパンは優勝しても興行的にはどうだったか。浮かれてばかりいるとアメリカだけにうまい汁を吸われてしまいそうだ。

2023年3月26日日曜日

無限を読みとく数学入門

アキレスと亀から解き始め、非ユークリッド幾何学に言及し、ケインズ経済学からカントールの集合論、最後にはゲーデルの不完全性定理にまで話題が及ぶ。カントールの無限論まではなんとかついていけたが、ゲーデルは流石に骨が折れる。
難しい問題をやさしく解説する技は、著者がかつて塾の講師をしていた時に培われたものなのだろうか。小さな円の中に非ユークリッド幾何学を示してみせた手管には感心した。非ユークリッド幾何学によって小さな円の中が無限の空間に早変わりする。昔の人々は無限に広がる地平と有限な地球の矛盾が理解できなかったが、今では小学生でもそれを理解する。300年後の人類(もしウクライナ発の核戦争などでまだ絶滅していなければの話だが)は無限の宇宙空間が実は有限である事を常識のように理解している事だろう。(2次元の無限は3次元の有限で解決する。だから3次元の無限は4次元の有限で解決するだろう、という予測) ギリシャ時代のパラドックス「アキレスは亀に追いつけない」をここまで徹底的に考察した本は今まで知らない。 あまりに面白くて、小島寛之著の本をブックオフオンラインで検索し、200円以下のものを全部注文した。全部で12冊になった。 「アキレスが亀を追いかける姿を思い描くとき、筆者にはどうしてもそれが、人間が真理を追いかける姿と二重映しになって見える。やっとそこにあった真理に手が届いたとおもったのもつかの間、もう真理は指先をすり抜けてもう一歩先に行ってしまう。(中略)追うことがアキレスの本性で、逃げることが亀の本性だとでもいうのか。その答えもきっと、一歩前を走る亀が知っているに違いない。」 次の本を読みたくなる気持ちが分かるでしょう?!

2023年3月21日火曜日

差別:809

 かつてアメリカでは異人種間の結婚が禁止されていたそうだ。近所に住む幼友達の黒人女性と結婚した白人男性が禁固刑に処せられた事件もあったらしい。今から思えばとんでもない事件だが、偏見による差別というのは渦中にいると気付かないものなのか。

昨今は同性同士の結婚も認めようという動きが主流だ。かつて同性愛は犯罪とされていた時代もあったが、その過ちを謝罪するかのように、同性愛者の権利を認め差別を禁止するLGBT法案なるものも話題になっている。間違った差別を禁止するのは当然の事としても、差別される側が権利を主張する事との間には一線を画す必要があるのではないだろうか。

人種差別において、差別禁止と同時に、差別される側つまり有色人種が白人と同じ権利を主張し、例えば同じトイレを使用する権利を主張するのは当然である。その権利を認めない白人がいたら差別主義者として非難されるべきだ。だが、肉体的には男性として生まれた人が、自分の心の性は女性だとして、女性トイレを使用する権利を主張するのはどうだろうか。それを不快に思う女性を差別主義者だとは思えないのは私が古い時代の人間で差別の渦中にいてそれを認識できないからなのか。

差別に苦しんだ人達と言えば、ハンセン病の患者達を思い出す。先日NHKで北条民雄というハンセン病に犯された作家を取り上げた番組があった。彼等は「らい予防法」という謂わば差別を推進する法律で、全ての患者が施設での隔離生活を生涯送る事を余儀なくされた。今では流石にその差別が不当であったとの共通認識はあるが、差別を禁止する法律が出来た訳でもなく、「らい予防法」を廃止しただけでお茶を濁しているのが現状だ。彼等こそ一般の人達と同じ扱いを受ける権利を主張して然るべきなのだ。

2023年3月14日火曜日

トマホークか訓練か:808

 日本政府は米国から巡航ミサイル「トマホーク」を400発買う事に決めたそうだ。国防予算増加に賛成の世論の後押しがあっての事だ。400発の内、何発が実際に使われ、何発が使われないまま耐用年数を終えるのだろう。一発でも使われれば相手国は黙っていないだろうからとんでもない事態になりそうだ。400発の全てが無駄になる事を切に願う。

ヨーロッパでは昨今の国際情勢に鑑み、様々な動きがあるようだ。デンマークで国防費を捻出するため国民の休日を一日減らそうという動きがあるのはまだ可愛いほうで、フランスでは負傷した人の傷の手当や止血法など応急処置の訓練を義務化する方向で検討しているというし、ポーランドでは高校生に銃の打ち方を指導しているらしい。もし日本で高校生のカリキュラムに週2時間程度の軍事教練を組み入れようとしたら恐らく大反対の声が沸き起こるだろう。

他国と陸続きになっていないという安心感からか、軍事費増強に賛成意見を表明する人達もまさか自分が武器を持って戦うという覚悟はないように思える。トマホークの購入には賛成だが、軍事訓練に反対するのはちょっと卑怯ではないか。本当に戦争になった時、自衛隊さん、米軍さんお願いしますよ、私は戦いたくありません、というのでは通らない。他国の侵略にあったら、トマホークも一定の役割は果たしてくれるかも知れない。しかし本当に国を守るためには国民自ら武器を持って立ち上がるしかないのだ。

それにしても、時代が進むにつれて段々物騒な世の中になって軍備に回す予算を増やさないといけないようになるのは何かおかしくないか。人類は過去の出来事に学び、反省し、いくらか生き物として賢くもなって、より平和で安全で豊かな世界を作るのではないのか。

2023年3月12日日曜日

死の講義

 「死の講義」



面白く、かつ読みやすいので一気に読めた。死とは何か?死んだらどうなるのか?の疑問に宗教の立場から考察する。

死の恐怖には誰しも一度は襲われた事があるだろう。

私も小学生の頃、死んだらどうなるのだろうかを想像すると怖くて仕方がなかった。死の後にくる無限の時間を思うとそれが怖くて怖くて・・・毎晩布団に入る度にその恐怖に襲われ、自然に涙があふれた。それを見た母は「また誰かと喧嘩して負けたのか」と聞いてきた。

中学生になると「死とは何か」を考える事は「自分とは何か」を考える事なのだと気付いた。死とは自分が無くなる事だ、ならば無くなる自分とは何か。

最初の答えは「つねると痛い部分、それが自分だ」というものだった。「痛みを感じる範囲が自分だ」という定義はそれなりに気に入っていた。例えば妹が虐められているのを見ると僕の心も痛む。家族が拷問されている姿を見れば誰だってどこかに痛みを感じるだろう。という事は妹や家族も僕の一部ではないか。この発想は後に自己と愛と運命が三位一体であるという自論に到るのだがそれはまだ遠い話。

ともかく、痛みが自分を証明する証だとする。そうすると髪の毛はどうだろう。髪の毛を切っても痛くないということは髪の毛は僕の体にくっついてはいるがもう自分ではないのか。爪もそうだ、汗も自分ではない。オシッコはどうか。腎臓で濾される前までは自分だが、膀胱に溜まってるときはもう自分ではないのか?ここまでが自分で、これから外は自分じゃないという境界線って思ってる以上に曖昧ではないだろうか。

食べ物だってそうだ。今目の前にあるホウレンソウ。これは明らかに自分ではない。ところがこれを口に入れ、咀嚼し、飲み込んだ。まだ自分じゃない。だけど胃袋に入って粉々になって、腸に入って分解された栄養素として吸収されるとその時点では自分になっている。ホウレンソウと自分の境界はどこにあるのだろう。

物質的な自分の体はちょっと前までホウレンソウだったり、ちょっと後には汗になったり尿になったりするような物だ。新陳代謝によって自分の体を構成する原子分子は絶えず入れ替わっている。昨日までホウレンソウの一部だった炭素が今日は僕の体の一部になり、昨日まで僕の一部だった酸素が今日は次の宿り木を探して空中をさまよっている。

物質的にみたら自分なんて本当に存在するかどうかすら分からない。ちょうど流れる川の中にザルを入れて「このザルの中の水は俺のものだ」と叫んでいるようなものなのだ。その内ザルが目詰まりを起こし、新陳代謝がなくなってザルの中の水が入れ替わらなくなって確定した時が自分の死なのだから、自分に拘泥するのは滑稽ではないか。

結局自分とはこの宇宙に漂う多くの原子の吹き溜まりに過ぎない。それが一定の秩序をもって集散する時にたまたま自意識が芽生え、自分が意識されているだけで、ある時間が経過するとその秩序が崩れバラバラの原子となって散らばってしまう。そうやって世界が流転しているに過ぎない。


仏教は因果の連鎖によって世界が成り立っていると視るらしい。そしてある出来事はたった一つの原因で起きる訳ではなく、いくつもの出来事が原因となって引き起こされると考える。真理を覚るとはこの世界のあるがまま、すなわち因果関係の連鎖のネットワークを認識する事だ、と仏教は言う。そしてそのネットワークの一部が自分なのだ、という事らしい。ウパニシャド哲学は「梵我一如」という。梵(ブラフマン)とは宇宙の法則、我(アートマン)は本当の自己、それが同一だというのだ。人間は実は人間ではなく、ただの因果関係である。

この発想はいくらかでも死を恐怖を和らげるだろうか?どうかな?

この本の次の一説が心に残った。



2023年3月7日火曜日

英語:807

 NHKの国際報道を見て思った。英語が世界を席巻している、と。武力や政治力でも英米の力は極めて大きいが、少なくとも言語に関しては間違いなく英語が世界を制したと言って良いのではないだろうか。

ロシアのウクライナ侵攻を西側諸国が非難し経済制裁を加える中、アジア・アフリカ諸国ではそれと一線を画す動きがみられる。特にアフリカ諸国ではヨーロッパの植民地として苦しんだ記憶もあってか、ロシア寄りの立場を取る国が少なくないらしい。そしてアジア・アフリカで欧米のジャーナリズムとは別の道を行くジャーナリストを育成する学校が出来た、とのニュースが流れた。欧米のジャーナリズムとは別の価値観からの報道も大切だ、という訳だ。

日本は欧米のジャーナリズムにどっぷり漬かっている。ウクライナの惨状は毎日のように報道されるが、同じようにイスラエルから攻撃を受けているガザ地区の人々の惨状は殆ど報道される事はない。民間施設が攻撃の対象になっている点からすれば、どちらも戦争犯罪の被害者と言って良い筈なのに。

さて、独自のジャーナリズムを育てようという学校の講義をロシア人講師が行っている様子が放映されたが、その講師は英語を使っていた。価値観は英米と対立しても、言語は彼等のものを使っている。そういえばEUだってイギリスが脱退し、域内に英語を母語とする国がないにも関わらず(アイルランドは英語かな?)、EU首脳は会見を英語で行っている。

かつて私が中学生の頃は、世界共通の言語としてエスペラント語なるものが提案され、それを学ぶクラブすらあった。あのエスペラント語はどうなったのだろう。やはり人工的な言語には血肉が伴わないのか。その言語で書かれた優れた文学作品がない事も普及の阻害要因だったのだろうか。