「死の講義」
面白く、かつ読みやすいので一気に読めた。死とは何か?死んだらどうなるのか?の疑問に宗教の立場から考察する。
死の恐怖には誰しも一度は襲われた事があるだろう。
私も小学生の頃、死んだらどうなるのだろうかを想像すると怖くて仕方がなかった。死の後にくる無限の時間を思うとそれが怖くて怖くて・・・毎晩布団に入る度にその恐怖に襲われ、自然に涙があふれた。それを見た母は「また誰かと喧嘩して負けたのか」と聞いてきた。
中学生になると「死とは何か」を考える事は「自分とは何か」を考える事なのだと気付いた。死とは自分が無くなる事だ、ならば無くなる自分とは何か。
最初の答えは「つねると痛い部分、それが自分だ」というものだった。「痛みを感じる範囲が自分だ」という定義はそれなりに気に入っていた。例えば妹が虐められているのを見ると僕の心も痛む。家族が拷問されている姿を見れば誰だってどこかに痛みを感じるだろう。という事は妹や家族も僕の一部ではないか。この発想は後に自己と愛と運命が三位一体であるという自論に到るのだがそれはまだ遠い話。
ともかく、痛みが自分を証明する証だとする。そうすると髪の毛はどうだろう。髪の毛を切っても痛くないということは髪の毛は僕の体にくっついてはいるがもう自分ではないのか。爪もそうだ、汗も自分ではない。オシッコはどうか。腎臓で濾される前までは自分だが、膀胱に溜まってるときはもう自分ではないのか?ここまでが自分で、これから外は自分じゃないという境界線って思ってる以上に曖昧ではないだろうか。
食べ物だってそうだ。今目の前にあるホウレンソウ。これは明らかに自分ではない。ところがこれを口に入れ、咀嚼し、飲み込んだ。まだ自分じゃない。だけど胃袋に入って粉々になって、腸に入って分解された栄養素として吸収されるとその時点では自分になっている。ホウレンソウと自分の境界はどこにあるのだろう。
物質的な自分の体はちょっと前までホウレンソウだったり、ちょっと後には汗になったり尿になったりするような物だ。新陳代謝によって自分の体を構成する原子分子は絶えず入れ替わっている。昨日までホウレンソウの一部だった炭素が今日は僕の体の一部になり、昨日まで僕の一部だった酸素が今日は次の宿り木を探して空中をさまよっている。
物質的にみたら自分なんて本当に存在するかどうかすら分からない。ちょうど流れる川の中にザルを入れて「このザルの中の水は俺のものだ」と叫んでいるようなものなのだ。その内ザルが目詰まりを起こし、新陳代謝がなくなってザルの中の水が入れ替わらなくなって確定した時が自分の死なのだから、自分に拘泥するのは滑稽ではないか。
結局自分とはこの宇宙に漂う多くの原子の吹き溜まりに過ぎない。それが一定の秩序をもって集散する時にたまたま自意識が芽生え、自分が意識されているだけで、ある時間が経過するとその秩序が崩れバラバラの原子となって散らばってしまう。そうやって世界が流転しているに過ぎない。
仏教は因果の連鎖によって世界が成り立っていると視るらしい。そしてある出来事はたった一つの原因で起きる訳ではなく、いくつもの出来事が原因となって引き起こされると考える。真理を覚るとはこの世界のあるがまま、すなわち因果関係の連鎖のネットワークを認識する事だ、と仏教は言う。そしてそのネットワークの一部が自分なのだ、という事らしい。ウパニシャド哲学は「梵我一如」という。梵(ブラフマン)とは宇宙の法則、我(アートマン)は本当の自己、それが同一だというのだ。人間は実は人間ではなく、ただの因果関係である。
この発想はいくらかでも死を恐怖を和らげるだろうか?どうかな?
この本の次の一説が心に残った。