明治神宮外苑にある聖徳記念絵画館へ行って来た。これは明治天皇の遺徳を偲んで建てられたもので、明治天皇誕生から崩御までの様々な出来事を描いた絵画が80枚展示されている。中には平田出身の小村大雲の絵もあった。
歴史についてはそこそこ知識がある積りだったが、今回初めて知って驚いた事があった。その一つが勝海舟と徳川慶喜の関係。皆様ご存知の江戸城無血開城に向けて西郷と勝が薩摩藩邸で会見した様子を描いた「江戸開城談判」という絵を寄贈したのは勝精(くわし)という人で、この人は勝の孫でありかつ慶喜の十男であると注釈があった。これは一体どういう事か。勝の娘が慶喜の側室となって十番目の男の子を産んだと解釈すれば整合性はあるが、そんな事があり得るのか。帰ってネットで調べると、慶喜の十男が勝家の養子に入ったとの事。11代将軍家斉は53人の子をなして次々と大名家へ養子に出したが、まさか将軍の子が下級武士の家の養子になる世が来ようとは思わなかったろう。
ところで「江戸開城談判」の絵を見て不思議に思った。勝が床の間を背にして、つまり上座に座っているのだ。戊辰戦争が始まる前なら幕臣旗本が一介の薩摩藩士の上座に座るのは当然としても、この時は西郷は官軍の代表としてつまり有栖川熾仁親王の名代として会見に臨んでいる筈。その上座に着くとは。お願いする立場の勝の気持ちはどうだったか。それとも西郷が昔馴染みの客を迎える感覚で上座を譲ったか。そう思って良く見ると勝は紋付羽織袴の正装だが、西郷は紋のない普段着のようだ。この会見、二日に渡って行われたらしい。初日は西郷は気楽に会ったが、勝の真剣な様子に驚いて、二日目には正装で臨み、上座に構えたのかも知れない。
あれこれ楽しい想像をしたのであった。
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