2025年1月28日火曜日

不安

 トランプ大統領の就任式を見て、いろんな疑問が浮かんだ。

彼はアメリカ第一主義を唱え、アメリカを再び偉大な国にし、世界から尊敬される国にする、と言う。しかし普通に単純に考えるに、自分が第一だと言う謂わば利己的な人が他人から尊敬されるような事があるのだろうか。またそういう人を偉大な人と言うのだろうか。日本語の偉大という言葉と英語のグレートとはニュアンスが違うのかどうか知らないが、日本語で偉大な人、偉大な国とは他者に寛容で、損得勘定よりは徳を重んじ、正義のためなら自分の損を受け入れるような、そんな人や国だと思う。価値の外交からディールの外交へ移行するというに至っては耳を疑う。人と付き合う際に、その人の人格よりも損得勘定を優先させるというに等しいではないか。

まあ変に利口ぶって偽善的な言葉を吐くよりも、正直に自分を丸出しにしているから良いという評価もあるのかも知れない。

就任式にはIT長者達が並んだ。彼等は一体何を望んで式に列席したのだろうか。トランプに取り入って自分等のビジネスをより有利に、要するにもっと金儲けをしたいからなのか。大金持ちになった事がないので分からないが、一定以上のお金を持ったら、それ以上儲ける事より何か後世に評価されるような事をしたくなるのではないだろうか。マイクロソフトのビル・ゲイツは式にいなかったが、彼は自身の莫大な財産を病気の撲滅のために使っている。アップル創業者のスティーブ・ジョブスが存命だったら彼は列席したのだろうか。彼は金儲けより魅惑的な新製品を生み出す事に興味があり、一時追い出されたアップルに復帰する時は年俸1ドルで契約をした。

兎に角これから世界はトランプに掻きまわされる。その混乱が紛争につながらない事を切に祈る。

2025年1月21日火曜日

お上

 私が週に四回テニスを楽しんでいるコートは市の西に位置する西公園の一画にある。その入り口に市と警察による二つの看板が立っていて、市の方は「一.ゴルフは危険ですので絶対にしないで下さい。一.犬のふんは必ず持ち帰って下さい」とあり、警察の看板には「近所迷惑となるため路上駐車は厳禁です」とある。

一つにまとめる事ができなかったのは公園内と周辺道路とで管轄が違うからなのだろう。私が違和感を持ったのは警察の方の看板だ。「路上駐車は控えましょう」とでも書いてあれば格別気にも留めなかった。警察が市民に向かって「厳禁です」などと命令する権利が法的に認められるのか気になる。どうしても駐車が許せなければ、道路交通法に則り一帯を駐車禁止に指定すれば良い。そうすればこんな命令口調の看板を立てる必要もなかった。

もし誰か不埒な人が看板を無視して駐車し、それで迷惑を蒙った住民が警察に通報したら、警察はどういう対応を取るのだろう。水戸黄門の様に「この看板が目に入らぬか」と言って刑罰を加えるのかな。それは冗談として、ゴルフや犬の糞など、路上駐車より遥かに悪質性が高く禁止すべき度合いの強い事項がお願い口調なのに、この温度差は何だろう。

恐らくは市には市民から色んな苦情が沢山来ていて、その対策に日頃頭を悩ましているという事情があるのだろう。片や警察には、敢えて苦情を言いに来る市民はあまりいないから、ついつい上から目線になってしまうのではないか。

法治国家と言いながら日本人がお上の独断に寛容なのは裏返せばお上への信頼が厚い事の証拠でもある。それは中国や西洋の支配層が貪欲であったのに対して江戸時代の武士が多分に禁欲的だった事が影響しているのではと思うのだがどうだろう。

2025年1月14日火曜日

法治国家

 駅伝を見て法治国家に思いを致したのには伏線があって、年末のNHKのドキュメント・映像の世紀「戦後日本の設計者 3人の宰相」を視聴したからであった。それは吉田茂、岸信介、田中角栄の3人が戦後日本の構築に果たした役割がテーマだったが、中でも印象に残ったのが吉田茂の人を喰ったような笑い顔だった。

彼はサンフランシスコ講和条約を結んで、日本の独立を回復した立役者として紹介され、講和条約のすぐ後、日米安保条約を結んだ事を誇らし気に語る時の自慢気な笑顔だった。彼は言う、その条約は国会での審議も了解も取らずに自分の独断で結んだ条約だった、と。さらには、それがワンマンのワンマンたるゆえんでしょうな、などと尾鰭まで付けていた。

日本は第二次大戦後西欧型の民主主義国家に生まれ変わったのではなかったか。一人の独裁者が勝手に外国と条約を結ぶなんて、まるでロシアや中国のようではないか。確かに彼の判断で日本は防衛費を最小に押え、経済発展に注力する事が出来た。(しかし、国民が食うや食わずの時に、駐留米軍の家族の贅沢のために日本の国家予算が使われていた事が孫崎享「戦後史の正体」で述べられている)国民の福祉向上につながるのであれば、意思決定の過程が独裁的であっても良いではないか、というのは中国流の民主主義だ。日本人はそれを是とはしないのではなかったか。

駅伝の運営に関する意思決定も、愚考するに恐らくは警察トップの腹一つでこうした催しが可となり、その決断を下したトップは話の分かる大物だという評価を得ているのだろう。法律がどうの、決まりがどうのと、いちいちうるさい事を言うな、という声も聞こえて来そうである。それで良いのならそれで良いが、ならば中国型の民主主義を批判するのは筋が通らない。

2025年1月7日火曜日

駅伝の疑問

 友人からの便りによれば出雲地方も良く晴れ気持ちの良い元旦を迎えられたようで慶賀の至りである。この一年が皆様にとって幸せな一年になりますように願うと当時に、このコラム並びに当新聞も何卒よろしくお願いします。

さて、関東地方も天候に恵まれ箱根駅伝では好記録が続出した。優勝争いは一方的な展開になっていくらか興味が削がれたが、来年のシードを巡る争いは4校のデッドヒートとなって手に汗を握った。多くの国民がそれぞれの思いで各校の健闘に一喜一憂し楽しい正月を送っているのだから、こんな事を騒ぎ立てるのは気が引けるがしかし、放送を見てある疑問が浮かんだ。

恐らく一校に一台割り当てられていると思われる白バイの数。それは道路を埋め尽くす程で、却って邪魔ではないかと心配だ。そして交差点の角々で交通整理にあたっている警察官の数。箱根駅伝の間は神奈川県警の派出所は空っぽになっているのではないだろうかと心配になってくる。そして何より道路という公共財を一時的にせよ私的な理由で占有してしまう事。道路の通行止めや混雑で買い物に支障をきたす程度で済めば良いが、緊急車両の通行が出来なくなり、その道を通れば救われたはずの命が失われてしまったりしたら、その責任は誰が取るのだろう。

箱根駅伝の過去の映像を見ると、遮断機が下りた踏切で、その遮断機を搔い潜って走り抜ける選手が写っている。そんな違法行為を堂々と放映するのも如何かと思うが、少なくとも昔は駅伝のために一般交通を規制するまでの事はしていなかった事が分かる。信号も赤だったら選手は足止めされたのではないだろうか。

そもそも道路の占有や警官と言う公務員の私的利用に法的根拠はあるのか。日本は本当に法治国家と言えるのか、そんな疑問が浮かんだのである。