2025年9月30日火曜日

SDGs

 どうしても好きになれないトランプ大統領だが、たった一つ彼の主張に共感できる事がある。地球環境問題とそれへの対策についてである。

23日の国連総会演説でトランプ大統領が気候変動問題を「史上最大の詐欺」と非難したと報じられた。最近SDGsとか称して行われている様々な運動に対して私も眉をひそめている一人である。

いや、地球環境がどうなっても良いと思っている訳ではない。人間の活動が地球に悪い影響を与えているならばそれを是正する必要があるのは認める。だが、声高にSDGsを唱える人達は本当に地球の事を考えているのか、自分の懐を優先しているのか、時々疑問に思うのである。

テレビのニュース番組でコメンテイターと呼ばれる人が夏の暑い盛りに厚手の生地のスリーピースを着て下には長袖のシャツを着ていたりする。エアコンが効きすぎてスタジオが余程寒いに違いない。電力を無駄に消費して平気な人にSDGsを語って欲しくない。

先日JALの飛行機に乗ったら、半袖だと寒くて仕方なかった。長袖で乗務しているキャビンアテンダントに何か羽織る物を所望したら「国内線には毛布の備えがありません」と断られた。事前のアンケートで暑がりの人しか乗っていない筈だから毛布を用意しなかったというなら分かるが、国内線だから用意しないとはどういう意味か。機内温度は長袖の自分等を基準にするのでなく、半袖の乗客を優先して欲しい。

地球環境を思うなら江戸時代の生活を参考にすべきである。太陽の恵みの範囲内での生活を満喫する知恵があった。古着の回収・再生は勿論の事、糞尿すら有価物として取引された。本気でSDGsをやれば経済は停滞するかも知れない。その覚悟なしにSDGsを語るのは詐欺に近いような気がする。

2025年9月23日火曜日

良い天気

 彼岸が近づくにつれて厳しい残暑も一段落、エアコンの助けを借りずに眠れるようになったのが嬉しい。秋雨前線の南下が北の涼しい空気を運んで来ると思うと、前線に伴う雨ももっと歓迎されても良いが、それでもやっぱり雨の降る日は天気が悪い。

中東のオマーンに在住経験のある友人が「オマーンでは雨が降ると『今日は良い天気ですね』と挨拶を交わすんだよ」と教えてくれた。強烈な日光が降り注ぐ砂漠の地では極くまれに降る雨はまさに恵みの雨、待ちに待った「良い天気」なのだろう。

詳しい統計は知らないが、彼の地で雨が降るのは恐らく年に数回、100日に1回程度だろうか。翻って日本はどうか。こちらも詳細なデータは知らないが、週間天気予報の傘マークの数から推測するに週に一回程度だろうか。510日に1回程度ならそんなに迷惑がらなくても良かろうにと思うが、それでも雨の日を悪い天気だと思うのは人間の我が儘の象徴のように思える。

地球を取り巻く環境が大きく変わって、ほぼ毎日雨が降り、10日に一回程度だけ太陽が顔を出すようだったら、人間はどんな挨拶を交わすのだろう。それこそめったにない晴天に「今日は本当に良い天気ですね」と喜びの声を交わすのだろうか。

私の想像では、そうなったら今度は雨の日を良い天気と呼び、晴れの日を悪い天気と思うのではないか。もし毎日雨が降るような気候であったら、人間は雨の日を前提とした生活様式を編み出し、雨が降らないと都合が悪いような日常生活を送っているに違いないからだ。

生物の進化は地球環境を前提とし、それに順応する方向で進んできた。野に咲く花や植物

は雨が降っても、光合成が出来る晴れの日もどちらも「今日は良い天気だなあ」と思っているに違いない。彼等こそ最適解を編み出した生物なのだ。

2025年9月16日火曜日

殺害

 アメリカでまた銃による暗殺が起きた。標的となったのはトランプ大統領の熱烈な支持者だったそうで、テレビのニュースでは「理由はどうであれ、暴力による殺害は決して許される事ではありません」というお決まりのコメントが流れた。

この当り前の言葉、個人対個人の場合には双方の個人の属性如何に拘わらずいつも発せられるが、国家が個人を殺害する場合には何故か適用されない。イスラエルはハマスの幹部を狙ってドーハを攻撃した。カタールは現在イスラエルが戦っている戦争の仲介役を担っていると言うのに。暴力により他を排除するという恥ずべき行為をイスラエルは何ら恥じる事無く自己の行動を正当化する。その根拠としたのが、アメリカがオサマ・ビン・ラディンらを堂々と殺害した事だった。

あの時アメリカは誇らし気に「ついにオサマ・ビン・ラディンを殺した」と「やったぜ!」と言わんばかりの声明を出した。自国の平和を守るためにやむを得ずした事なら、せめて「今回の行動は万策尽きた最後の手段に訴えたもので、痛恨の極みである。」くらいの事を言えないものか。

国家が個人を殺すのは戦争も同じで、この場合も殺害行為が賞賛される。本来なら非難され罰せられるべき殺傷という行為が賞賛の的になるなんて戦争の異常さの象徴だ。敵の兵士を殺さずに生け捕りにする事は出来ないのか。激しい殺意が交錯する戦場でそんな悠長な事!と思われるかも知れないが、例えば銃は全て麻酔銃にしたらどうか。麻酔で動けなくなった敵を捕獲し、戦争中は自国の収容所に収監するが、戦争が終わったら生きたまま国に返す。

全ての兵器が殺害・破壊ではなく、一定期間使用不能にする事を目指し、平和が回復した時に原状復帰出来るものにしたら、思う存分戦争が出来るだろうに。

2025年9月9日火曜日

戦勝記念日

 さる9月3日はかつての連合国の戦勝記念日だそうで、中国では盛大な軍事パレードが行われた。日本の新聞では「抗日戦争勝利80周年」と報じられたが、中国でも「戦勝記念」という言葉が使われるのかテレビの画面を注視した。

日本では8月15日が「終戦の日」として様々な行事が行われる。本来ならこれは「敗戦記念日」とすべきだろうが、言霊の国・日本ではそんなゲンの悪い言葉は使いたくないらしい。

さて、戦勝、終戦、敗戦と並べると不思議な事に気付く。この中でまともな言葉は敗戦だけではないか、と。誤解しないで頂きたいが、勝ち負けを問題にしている訳ではない。語順が問題なのである。漢語において動詞と名詞を並べる時、名詞が主語ならば名詞を先に、名詞が補語・目的語ならば動詞を先にするのが本来の在り方である。日本では「券売機」などと変な漢語が使われるが、中国では切符売り場には「売票所」と表示されていた。「券売機」などと言うのは「I school to go」と言っているようなものなのだ。

だから、「戦に敗けた」のだから「敗戦」は正しいが、「戦に勝った」なら「勝戦」でなければならないし、「戦が終わった」なら「戦終」でなければならない。

漢語が母国語の中国ならその点はきっちりしている筈だと、目を皿のようにして軍事パレードを見つめたが、残念ながらその証拠を発見する事は出来なかった。その替わりに凄い事が分かった。一糸乱れず行進する兵士の頭の位置が全て同じ高さだったのだ。良くもまああれだけ同じ背丈の人を集めたものだ。若干の身長差は靴底の厚さで調整したのだろうが、それでもせいぜい5㎝程度だろう。同じ日にハバロフスクで行われたパレードでは頭の位置はバラバラだった。

(毎週火曜日掲載を原則としていますが、来週は火曜が休刊日のため水曜掲載となります。よろしくお願いします。)

2025年9月2日火曜日

役員報酬

 3か月程前になるが、日産が退任する社長や役員計4名に対して総額6億4600万円の報酬を支払ったというニュースにはびっくりした。日産の経営不振に何ら対策を打てなかった人達に対し、まるで泥棒に追い銭ではないか。

業界通によると「内田氏は社長として意思決定が遅く、坂本氏は生産担当として過剰生産能力の対策を先送りし、開発担当の中畔氏は売れるクルマを出せなかった。星野氏はブランド戦略の責任者でありながら、日産車のブランド力が低下して値引きしないと売れないブランドになったことに抜本的な対策が打てなかった」とか。実際にデータを見ると内田社長の就任以来販売台数はずっと下がり続けている。報酬を渡すどころか職務怠慢、又は善管注意義務違反で損害賠償を求めたって良いくらいだ。

そう思っていると、7月にはスタバのCEOが従業員の給与の中央値(約220万円)の6666倍の年間報酬(約144億円)を受け取ったというし、8月にはテスラのイーロン・マスクの暫定報酬が4.4兆円だというニュースがあった。暫定というのは株主総会で示された報酬額について裁判所が承認の過程に問題ありとして差し止めた事情があるからだ。年棒4兆円!400で割って100億円だから、毎日100億円使っても使い切れない。恐らく個人の消費としては一生使い切らない金額だろう。(マスク氏は火星に行きたいみたいだから、そのためには多額の費用が必要だろうが、それは企業としての支出だ)

役員報酬は従業員給与の中央値(平均値では底上げにつながらない)の100倍を超えてはならないという法律を作ったらどうだろう。経営者が自分の取り分を増やすためには従業員の給与も上げなくてはいけなくて非常に良い賃上げのインセンティブになると思うのだが。