2025年9月16日火曜日

殺害

 アメリカでまた銃による暗殺が起きた。標的となったのはトランプ大統領の熱烈な支持者だったそうで、テレビのニュースでは「理由はどうであれ、暴力による殺害は決して許される事ではありません」というお決まりのコメントが流れた。

この当り前の言葉、個人対個人の場合には双方の個人の属性如何に拘わらずいつも発せられるが、国家が個人を殺害する場合には何故か適用されない。イスラエルはハマスの幹部を狙ってドーハを攻撃した。カタールは現在イスラエルが戦っている戦争の仲介役を担っていると言うのに。暴力により他を排除するという恥ずべき行為をイスラエルは何ら恥じる事無く自己の行動を正当化する。その根拠としたのが、アメリカがオサマ・ビン・ラディンらを堂々と殺害した事だった。

あの時アメリカは誇らし気に「ついにオサマ・ビン・ラディンを殺した」と「やったぜ!」と言わんばかりの声明を出した。自国の平和を守るためにやむを得ずした事なら、せめて「今回の行動は万策尽きた最後の手段に訴えたもので、痛恨の極みである。」くらいの事を言えないものか。

国家が個人を殺すのは戦争も同じで、この場合も殺害行為が賞賛される。本来なら非難され罰せられるべき殺傷という行為が賞賛の的になるなんて戦争の異常さの象徴だ。敵の兵士を殺さずに生け捕りにする事は出来ないのか。激しい殺意が交錯する戦場でそんな悠長な事!と思われるかも知れないが、例えば銃は全て麻酔銃にしたらどうか。麻酔で動けなくなった敵を捕獲し、戦争中は自国の収容所に収監するが、戦争が終わったら生きたまま国に返す。

全ての兵器が殺害・破壊ではなく、一定期間使用不能にする事を目指し、平和が回復した時に原状復帰出来るものにしたら、思う存分戦争が出来るだろうに。

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