2015年3月31日火曜日

史跡

「花燃ゆ」の萩へ行ってきた。流石に大河ドラマの威力だろうか、金曜日の市内の宿の予約はどこも満室だった。
松下村塾や毛利家の菩提寺である東光寺のある椿東地区を回って思った。吉田松陰が生き返ってこうした史跡を見たら何と思うのだろうか。松下村塾を保存して当時の面影を偲ぶのは良いとして、流れ造りの壮麗な松陰神社や、松陰誕生の地の近くに建てられた松陰と金子重輔の銅像を見たら「おいおい、ちょっと待てよ」と言うのではないだろうか。
今の松陰神社は昭和三十年に建てられたもので、元は間口一間半奥行二間の土蔵造りの小さな祠だった。その建物は現在松門神社として松下村塾の門人五十二柱を祀っているが、いかにも質素なたたずまいでこれなら松陰先生もとやかくは言わないかも知れない。が、今の社殿はあまりに立派で「こんなものを建てる金があったら、貧しさゆえに学問ができない子供たちに分け与えなさい」と苦言を呈すのではないか。松陰誕生の地の近くに建てられた銅像に至っては昭和四十三年に建てられたもので、見る者に見上げる事を強いるような造りになっている。北朝鮮の銅像ではあるまいし、こんな強圧的なものを松陰先生が望む訳がない。銅像の碑には同じ山口出身の佐藤栄作の揮毫が彫られているがまさに松陰先生をダシにした現世の醜い欲望を見る思いがする。

これはトルコのアタチュルク廟を見た時にも感じた事だ。黄金で覆ったそれはそれは豪勢な廟で、祖国の防衛に命を張ったアタチュルクが本当に望んだものなのか疑問に思った。近代トルコの礎を築いたアタチュルクは日本で言えば大久保利通に当たるかも知れない。大久保の史跡と言えば清水谷公園に飾り気のない石碑が立っているだけだ。史跡の過度な豪奢さはむしろその人への侮蔑にも見える。

2015年3月24日火曜日

スマホ

スマホを使いだして数カ月が経つ。すべての機能を使いこなしているわけではないが、それなりの便利さを感じている。かつて人からスマホを薦められた時は「パソコンを常時持ち歩いている感じが良い」のだと言われたが、まさに田舎に帰省したときはその便利さを実感する。
固定電話によるインターネットへの接続環境がなくても簡単なメールなら見ることができるのは大変にありがたい。パソコンと言えば私が出会った頃のそれは技術計算をする道具だった。それがいつの間にか文章を書く道具になり、他人と連絡を取り合う道具になり、そして今は世の中にある情報を入手する道具になっている。
田舎に帰ってBBCやアルジャジーラのニュースを無料で見ることができるのもありがたい。新聞がなくとも、テレビが芸能ニュースしか流さなくともニュースに飢えることがない。チュニジアでのテロ事件も最新の情報に接することができた。CNNの音声ニュースも無料で聞けるが、音声を聞くとなると多量のパケットを消費するので、無料のWiFiがある場所でないと聞かないことにしている。
万歩計の機能がついているのも重宝している。腰のベルトにつけるタイプの万歩計は何個失くしたことか。ポケットに入れて測れるタイプのものは機能が多すぎて困った。知らないうちに歩数カウントが消費カロリー表示に変わっていたり、それを元に戻すためにはAのボタンを押しながらBのボタンを押すなどと、その度にマニュアルと格闘しないといけない。万歩計ごときにそんな操作を覚えていられるか。その点スマホの万歩計は単純だし、元来スマホは常に身につけているものだから使用形態は万歩計にぴったりだ。最近はパジャマに着替えてからもポケットにはいつもスマホを忍ばせている。

2015年3月17日火曜日

JFK

前回に続き催し物からの話題。皇居北の丸公園内の国立公文書館で「JFK-その生涯と遺産」展が開催中である。故ケネディ大統領に係わる写真や遺品などが展示されている。
中でも特に印象が残ったのはキューバ危機に際して弟ロバートが残したメモだった。それは紙の切れ端になぐり書きするかのように ”I now know how Tojo felt when he was ordering Pearl Harbor”と書かれていた。キューバに建設されつつあるミサイル基地をなきものにするためには奇襲を仕掛けるしかなく、予告なしに攻撃するとしたらかつての真珠湾攻撃と同じだなと、東條英機の苦しい胸の内を思い起こしたのだ。
ケネディ大統領の演説の模様を録画したビデオの中に「アメリカ国民に対する公民権についてのテレビおよびラジオ報告」というのがあった。一九六三年アラバマ大学の入学試験に合格した二人の黒人の入学を認めようとしない州知事に対して、入学を認めさせるために州兵まで動員したときの演説だ。大統領は「明らかに入学資格を持ち、たまたま黒人に生まれた二人のアラバマ州民の若者」と言っている。驚いたのはこの「黒人」のところ、「ニグロ」と言っている事だ。
「ニグロ」というのは蔑称の響きがあって最近は「ブラック」とか「アフリカン・アメリカン」と言っている。「夜の大捜査線」という映画は北部の黒人警官がたまたま通りかかった南部の町での殺人事件を解決する話だが、その町の保安官を演じるロッド・スタイガーが時に「ニグロ」と言ったり時に「ブラック」と言ったりする。字幕ではどちらも「黒人」と訳してあるが、場面を見ると明らかに使い分けているのが分かる。この映画は一九六七年製作。人種問題が大きな曲がり角にあった時代なのだ。

2015年3月10日火曜日

明治の駅

皇居を大手門から入って数十米歩いたところに三の丸尚蔵館がある。そこで三月八日まで「明治天皇 邦を知り国を治める 近代の国見と天皇のまなざし」という展示をやっていた。明治五年から十八年まで六回にわたって明治天皇が全国各地を行幸した際に記録された写真や絵画、供奉した文学御用掛らの日誌が展示されていた。
スキーを雪艇と言ったり、津波を海嘯と言ったり、当時の呼び方が分かるのも面白かったが、中にはちょっとどうかと思われるものもあった。説明書きが外国人向けに英訳されている中で「駅」が一様に”station”とされている点だ。宮内庁の仕事にケチをつけるなんて甚だ恐れ多いことではあるがこれは当時の時代考証に手抜きがあったのではないかと思わざるを得ない。
明治十一年九月五日の「新町駅製糸場」の写真にはShinmachi Station Filatureと付記されているが、どうみても工場が駅舎の中にあるようには見えない。同じく明治十一年「金谷台御小休所より大井川金谷駅」は旅伏山中腹から簸川平野を見下ろしたような写真だが、これを外国人が見たら「どうして日本人はこんな山深いところに鉄道の敷設を急いだのだろう」と思ってしまうに違いない。
「駅」というのは元来官道に設置された宿場を表す言葉で、西洋から鉄道が入った時”station”には適当な訳語がなくステーションまたはステンションと言われていた(当欄第十四回参照)。後に停車場と呼ばれるようになったのは明治十九年生れの石川啄木がふるさとの訛りを聞きに行ったのが駅ではなく停車場だったことからも分かる。”station”の訳語として「駅」が定着するのは明治も終わり近くになってからなのである。

2015年3月3日火曜日

いじめ

フランスのシャルリー・エブドの風刺画も、大阪の水族館でのセクハラも、川崎の中学生が殺害された事件も、ある意味で同じ側面を持っているように見える。誰かが誰かに嫌がらせをしたり、いじめたりしているという構図だ。
シャルリー・エブドではイスラム教徒が嫌がるという事を知っていながら敢えてムハンマドの風刺画を掲載し、だが不思議な事に世論はそれを表現の自由の問題だとした。大阪の水族館では上司が女性従業員に嫌がらせの言葉をあびせ掛け、でも流石にこの時は表現の自由に言及する人はいなかった。上司が立場の弱い従業員をいじめるのが悪いのは当然として、経済力や軍事力で優位に立つキリスト教徒がイスラム教徒をいじめるのは自由だというのはどうにも筋が通らないような気がする。
いじめられた側の行動を比較してみよう。イスラム教徒は「われシャルリーにあらず」のプラカードを掲げて不快感を表明した。大阪の女性の行動はあまり報道されないが、直接面と向かってやめてくれとは言わなかったようだ。二審の無罪判決は「女性が明確な抗議をしなかったため、発言は許されると勘違いした。」事による。川崎の上村さんは自力での打開を目指し、周りに助けを求めるのは卑怯だ、とでも思っていたようなフシがある。同級生の「彼はいつも笑っていた。昨夏の夏祭りでも、今年2月にゲームコーナーで会った時も。だから気づいてあげられなかったのかも。」という証言が新聞に載っていた。
上村さんが自力で解決するためには相手を上回る体力や喧嘩の技術が必要だったろうが、もし過剰防衛気味に上村さんの方が逆に十八歳の少年を殺めたとしたら世論はどう反応したか。イスラム過激派によるシャルリー襲撃がその構図だと言うのは拡大解釈が過ぎるだろうが。