2015年3月3日火曜日

いじめ

フランスのシャルリー・エブドの風刺画も、大阪の水族館でのセクハラも、川崎の中学生が殺害された事件も、ある意味で同じ側面を持っているように見える。誰かが誰かに嫌がらせをしたり、いじめたりしているという構図だ。
シャルリー・エブドではイスラム教徒が嫌がるという事を知っていながら敢えてムハンマドの風刺画を掲載し、だが不思議な事に世論はそれを表現の自由の問題だとした。大阪の水族館では上司が女性従業員に嫌がらせの言葉をあびせ掛け、でも流石にこの時は表現の自由に言及する人はいなかった。上司が立場の弱い従業員をいじめるのが悪いのは当然として、経済力や軍事力で優位に立つキリスト教徒がイスラム教徒をいじめるのは自由だというのはどうにも筋が通らないような気がする。
いじめられた側の行動を比較してみよう。イスラム教徒は「われシャルリーにあらず」のプラカードを掲げて不快感を表明した。大阪の女性の行動はあまり報道されないが、直接面と向かってやめてくれとは言わなかったようだ。二審の無罪判決は「女性が明確な抗議をしなかったため、発言は許されると勘違いした。」事による。川崎の上村さんは自力での打開を目指し、周りに助けを求めるのは卑怯だ、とでも思っていたようなフシがある。同級生の「彼はいつも笑っていた。昨夏の夏祭りでも、今年2月にゲームコーナーで会った時も。だから気づいてあげられなかったのかも。」という証言が新聞に載っていた。
上村さんが自力で解決するためには相手を上回る体力や喧嘩の技術が必要だったろうが、もし過剰防衛気味に上村さんの方が逆に十八歳の少年を殺めたとしたら世論はどう反応したか。イスラム過激派によるシャルリー襲撃がその構図だと言うのは拡大解釈が過ぎるだろうが。

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