皇居を大手門から入って数十米歩いたところに三の丸尚蔵館がある。そこで三月八日まで「明治天皇 邦を知り国を治める
- 近代の国見と天皇のまなざし」という展示をやっていた。明治五年から十八年まで六回にわたって明治天皇が全国各地を行幸した際に記録された写真や絵画、供奉した文学御用掛らの日誌が展示されていた。
スキーを雪艇と言ったり、津波を海嘯と言ったり、当時の呼び方が分かるのも面白かったが、中にはちょっとどうかと思われるものもあった。説明書きが外国人向けに英訳されている中で「駅」が一様に”station”とされている点だ。宮内庁の仕事にケチをつけるなんて甚だ恐れ多いことではあるがこれは当時の時代考証に手抜きがあったのではないかと思わざるを得ない。
明治十一年九月五日の「新町駅製糸場」の写真にはShinmachi
Station Filatureと付記されているが、どうみても工場が駅舎の中にあるようには見えない。同じく明治十一年「金谷台御小休所より大井川金谷駅」は旅伏山中腹から簸川平野を見下ろしたような写真だが、これを外国人が見たら「どうして日本人はこんな山深いところに鉄道の敷設を急いだのだろう」と思ってしまうに違いない。
「駅」というのは元来官道に設置された宿場を表す言葉で、西洋から鉄道が入った時”station”には適当な訳語がなくステーションまたはステンションと言われていた(当欄第十四回参照)。後に停車場と呼ばれるようになったのは明治十九年生れの石川啄木がふるさとの訛りを聞きに行ったのが駅ではなく停車場だったことからも分かる。”station”の訳語として「駅」が定着するのは明治も終わり近くになってからなのである。
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