2015年9月29日火曜日

「が」と「は」

先週「が」が目に付いてしようがないと苦情を呈して数日後、フィリピンで誘拐事件が発生し邦人を含む複数の被害者が出たとのニュースがあった。テレビ画面には「ノルウェー人二人、スェーデン人二人、フィリピン人女性が誘拐」のテロップが流れ、「ああもう犯人が捕まったのか、それにしても変な犯行グループだな」と思ってしまったが、これも最後に「された」が省略されたものだった。こういう表現は誰もおかしいと思わないのだろうか。どうしても「が」を使いたければ「・・が受難」とでも言ってくれるとありがたいが。
「が」ではなく「は」を使ったらどうか。「・・は誘拐」。これだと、複数の被害者がいて全貌は未だ明らかになってはいないが、少なくともこの数人は誘拐された、というニュアンスが伝わる。たった一文字の違いでこれだけの背景情報を伝達できるのだから日本語は素晴らしいではないか。もっとも同じような事は英語でもあるらしい。
日本語での「が」と「は」の違いは英語では「a」と「the」の違いに相当する、という説がある。昔話の書き出しを思い出したらいい。「昔々ある所におじいさんとおばあさんがいました。ある日おじいさんは・・」とまず「が」で紹介し、次に「は」で行動を記述する。同じように英語でも最初に出てくるときは「a man」だが、話題の主が明確になった時点で「the man」を使う。これが逆になると読み手は混乱する。
「オリンピックで日本選手は優勝したよ」といきなり言われると、「えっ、一体誰のこと?」と聞き返したくなる。同じ事が英語でいきなり「the」を使ったときの感じらしい。
数回前「阿波踊り」の稿で「阿呆である事は」にすべきか「阿呆である事が」にすべきか大変悩んだ。今でもどちらが適切なのかよく分からない。

2015年9月22日火曜日

「が」の氾濫

最近テレビや新聞の見出しでの「が」の氾濫は目に余る。しかもその多くが用法を誤っている。
例えば「上海臨時政府庁舎が一般公開」、しばらく前には「ムバラク大統領の息子が解放」なども。皆様はこれをどう読まれるか。私には最初の例で言えば「上海臨時政府庁舎というのが既存であって、そこが何かの資料を一般公開した」と聞えるし、二番目の例では「ムバラク大統領の息子が何かの権限を持っていて誰かを解放した」としか理解できない。実際は二つの例とも最後に「された」を省略した表現なのだ。
そもそも日本語には受身形はあまり似合わない。百人一首を調べてみたが受身形は一つもない。「衣干すてふ天の香具山」という歌も現代語訳では「衣が干されている」と受身で紹介されるが元の歌は能動形だ。受動形で言いたいのなら語尾まで省略せずに言うべきだし、むしろ無人称の主語を想定して能動形で言う方が自然な日本語になる。本来なら「上海臨時政府庁舎を一般公開」とか「ムバラク大統領の息子、解放さる」と言うべきところだろう。
そもそも「が」で主格を表す表現はつい最近の事ではないか。百人一首を調べたが、主格が「が」で表現されている歌は一つもない。そもそも主格を明示しない歌が多いが、はっきり分かるものでは「は」が一番多く十九首あった。俵万智の歌集には時々主格の「が」が出てくる。広辞苑で「が」を調べると大きく分けて格助詞、接続助詞、終助詞とあって、格助詞の中でも主格を表す例は五番目に紹介してあるに過ぎない。
日本語は助詞の使い方で細かなニュアンスを伝える言語で、外国人が日本語を学ぶ際にも「てにをは」が難しいなどと言う。最近の「が」の氾濫は「てにをは」に選ばれなかった「が」の反乱の様に見える。

2015年9月15日火曜日

降伏文書

第二次大戦が終わって七十年。中国では所謂「抗日勝利記念」として大規模な軍事パレードが行われた。歴史に学べと声高に主張している国だからまさか間違いはなかろうが、かつて日本が歩んだ誤った道を繰り返すことないように、過去の歴史に学び以って他山の石として欲しいものである。
日本の外務省外交史料館では戦後七十年企画として降伏文書原本の特別展示が行われた。原本を見るといろいろ面白い。
まず、調印の日時が分単位で書かれている。「大日本帝国天皇陛下及び日本国政府の命に依り、且其の名に於いて」として重光葵がサインをしたのは九月二日午前九時四分とある。当然九月二日までは印刷してあるが九時四分の部分は0904と手書きで書いてあった。ちなみにこれを諸国家のために受諾するとして聯合国最高司令官ダグラス・マッカーサーが署名したのは九時八分だった。
さて、ここで言う諸国家とは具体的にどこか。それを全て正確に挙げられる人はあまりいないのではないだろうか。またその順番にも重要な意味があるようだ。
マッカーサーの次に署名してるのは当然ながら合衆国を代表してニミッツ。あの「出て来いニミッツ、マッカーサー」のニミッツだ。次が中華民国の代表徐永昌。以下聯合王国(イギリス)、ソ連、オーストラリア、カナダ、フランス、オランダ、ニュージーランドと続く。
ここで面白いのが、何故かカナダの代表が署名する欄を間違えてしまったようなのだ。本来カナダ代表が署名すべき場所が空白になっていて、以下順送りする形で欄を説明する添え字が手書きで修正してある。カナダとフランスを入れ替えて以下はそのまま記入しても良かっただろうに、どうしてもこの順番(恐らく勝利に貢献した順番)を変えることはできなかったらしい。

2015年9月8日火曜日

エンブレム?

佐野氏の作品をめぐっての醜聞は海外でも話題になっているようだ。日本人として恥ずかしい限りだが、海外メディアの報じるところを見るといずれもが「オリンピックロゴ」という言い方をしている。エンブレムなどと勿体をつけた言い方をしているのは日本だけなのだろうか。
ともかく、今回の騒動では透明性が問題だとか責任の所在が問題だ、などとの議論があるが本当にそうだろうか。今回の問題の本質は要するにデザイナーに能力と倫理感が欠落していた事ではないか。そのどちらでもあればこれほど大きな騒動にはならなかったのではないかと思われる。
倫理感の欠如を示すのは他者のコピーライトが明記してある写真を無断借用した事だ。こういう場合に使うべきはパブリック・ドメイン(公有と訳されるようだ)と呼ばれる著作権フリーの素材のはずで、どうしてもあの写真が使いたかったなら、せめてコピーライトを明示して「内輪の審査段階だからこの写真を使いますが公にする際には著作権者に了解を取ります。」などと断りを入れるべきだったろう。デザイナーとして一番神経を使うべき局面だったはずなのに。
能力の欠如を思うのは盗作を疑われる似た作品が沢山ある中、いずれも原デザインを超える創意が見えない事だ。太田市美術館図書館のロゴマークなど、原デザインは円の大きさと直線の長さがバランス良くデザインされているのに佐野作品はどうにもアンバランスだ。Bの文字などひどく窮屈そうで可哀相なくらい。

他の作品からインスピレーションを得たとして、自分なりの創意を加える能力がないといけない。極端な話、前回オリンピックの亀倉雄策の作品は考えようによっては完全な日の丸のパクリだが、誰もそれを批難しないのは作者の創意が強く感じられるからに他ならない。

2015年9月1日火曜日

世界陸上

世界陸上を見て感じたこと。
・肌の色を決めるDNAと運動能力を左右するDNAとは何か関係があるのだろうか。そう思わざるを得ないほど黒人選手の活躍が目立つし、混血に当たっての肌の色の優位性も不思議ではある。顔の骨格は白人的な遺伝子を受け継いだと思われる人でも肌の色は濃い。逆に顔の骨格が黒人的で肌が白い人はいないからここには何か遺伝の法則が働いているようだ。
・体格が成績に大きく影響するような競技は問題だ。柔道に体重別があるのなら走り高跳びは身長別にすべきだろう。それともバーの高さと身長の比を争うようにしたらどうか。背が低くても足腰の強靭な選手が賞賛を得る可能性を残すため、機会均等を保証するのは大事なことだと思う。
・十種競技の優勝者は100mの勝者やマラソンの勝者に劣らぬ賞賛を受けるべきではないだろうか。走る投げる飛ぶ、全ての運動に対応する体を作り上げなければならないのだから。そう言えばかつて楊伝広という「東洋の鉄人」と呼ばれた人がいた。私が小学生の頃、彼の伝記を読んで胸を躍らせたものだった。
・準決勝では後半流しながら走って977のタイムを出したガトリン選手が、決勝では懸命に全力を出しても980しか出せなかった。当たり前のように早く走る選手の裏にある努力や節制に思いを馳せた。
REUSという名のドイツ人選手がいて、これをアナウンサーは「レウス」と発音していた。どう考えても「ロイス」と発音すべきだろう。ドイツ語でEUをオイと発音するのは常識ではないか。全てをローマ字読みしている訳でもなさそうだし。EUROはドイツでは「オイロ」と言われているが、一般には「ユーロ」であって決して「エウロ」ではない。