当事者意識に欠けた言動に接すると一瞬眼や耳を疑い、次にとてもしらけた気持ちになる。
広島の中学校で起きた生徒の非行履歴の誤認問題。記録された生徒の名前が間違っている事が指摘されながら、誰がデータの修正を行うかの役割分担が不明確でそのまま放置されたとか。それで一人の生徒の命がなくなったとすれば、これは一種の業務上過失致死と言っていいのではないか。関係する何人かの教員の内、一人でも生徒の身になって親身に自分の問題として対処する気持ちがあれば防げたはずだ。教員同士では普段一体どういう会話をしているのだろう。誤記録について情報が流通するコミュニティーはなかったのか。担当の教員は教え子の過去について周りの同僚に相談する気になれなかったのか。そうすれば誤記録に気付く機会もあったはずだ。
高浜原発停止命令に関しては、事故後の避難計画に問題があるのでは、との指摘に対して原子力規制委員会の田中委員長が「計画を作るのは自治体の役割」と発言したそうだ。自分の役割は基準を作る事であって、それは世界最高水準だからそれ以外は知らない、とでも言うのだろうか。そもそも本当に最高水準にあるのかどうか私は疑問に思っているが(三七四回「原発と大本営」参照)、仮にそうであったとしても原発の安全性は万が一の時の住民の安全な避難が担保されて初めて達成されるものだ。関係者全員がその大きな目標に向かって自分の持ち場以外の場所にも抜かりがないか目を光らせていないと、原発事故による被害は避けられないと思う。
自分の役割以外の事は知りません、などと言って幸せになった人は一人もいない。役割の先にある真の目的に向かって為すべき事を問うて初めて責任を全うできる。歴史を見れば誰でもわかるはずだ。
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