2017年8月29日火曜日

埼玉在住

これもカミングアウトというのだろうか。当コラムの左下に書かれている私の肩書きに「東京在住」とあるが、実は埼玉在住が正しい。そういう表記を私が望んだ訳ではなく、すべてを承知の編集部の考えだから、その方が何かとすわりがいいのだろう。確かに仕事も遊びも東京がメインで、埼玉は住民票があるだけの事だから別段詐称の意識もない。
こちらに引越す前は神奈川の横浜に住んでいたが、そのときも東京在住と書かれて違和感はなかっただろう。千葉に住んでいる人も恐らく同じ。だが関西はきっと違う。京都に住んで大阪に通勤している人が大阪在住と書かれる事には強い抵抗を感じるに違いない。神戸や奈良でも同じだろう。関東と関西のこの違いは歴史によるのかブランド力によるのか。
さて、その埼玉ももう住んで二十年以上になり、我が人生で最長の場所となった。その土地への思いという点では幼少の十八年を過ごした島根の方が強いのは当たり前だが、私の子供達は当然のように高校野球といえば埼玉を応援する。友人で転勤族の家庭に育ち、小学・中学時代に各地を転々とした人に高校野球はどこを応援するのか聞く事がある。それがその人の帰属意識を測る一番のバロメーターだと思うから。今年は埼玉の高校が優勝した。九十九回の歴史の中で初めての事だそうだ。かつて春日部共栄など強豪校がいたので意外な気がする。

実は先週息子と孫を連れて甲子園の準決勝を見てきた。広陵の中村選手の六号本塁打も生でこの眼で見てきた。花咲特栄の優勝はその意味でも記憶に残る事になった。地元ではスーパーで記念の安売りなどがあったらしい。優勝にはしゃぐ子供らに「一回戦でまぐれとは言え開星に勝てて勢いがついたね。」と冗談まじりに強がりと負け惜しみを言ってみた。

2017年8月22日火曜日

平等と公平

トランプ大統領の短慮な発言から人種差別が話題になっている。どう頑張っても人種差別を正当化する理屈を見つけるのは困難だろう。ところで男女平等の問題はどうだろうか。
先日ある女性活動家が男女平等を訴えるプレゼンテーションを行うのを聞いた。彼女はアメリカのある州の一定以上の規模の会社の社長を調べて、ジョンという名の社長が女性社長より多いと嘆いていた。
確かに女性の社会進出は望ましい事であるのは間違いないが、社長の数で男女平等を問うのは如何なものか。この場合、平等というより公平という言葉の方が適切のような気がする。女性であるというだけで不公平な扱いを受けてはならない。同じ仕事をしているのに女性だから給与を減らすなど言語道断。
しかし男女には生物学的な違いが厳然としてあるのだから、異なる扱いの方が公平だという事もある。テニスをはじめスポーツの殆どが男女別に争われるのはその一つ。かつて世界一だったジョン・マッケンローが「セレナは素晴らしい選手だが男性の中では七百位くらい」と発言して物議をかもした。言わずもがなの暴言だが、男女平等だから同じ土俵で争うべきだという人はいないだろう。
さて平等、公平というと明治になって西洋からやって来た概念かと思っていたが意外と古い。日本国語大辞典によると平等は十三世紀の沙石集に「平等の慈悲をおこして孝養の懇志をはげまして衆生をすくいたすくべし」という用例が、公平は室町時代の文明本節用集に「君若為事公平則百姓皆歓悦也」という用例があるらしい。君主が公平に事を為せば、民衆は皆歓ぶという事か。日本にも昔から開明的な考えがあったのだ。

そう言えば江戸時代まで銭湯では男女の入り口が別れてなかったとか。男女平等を考えての事ではなかろうが。

2017年8月15日火曜日

プロの気概

床屋に行くと必ず聞かれる。「どのように致しましょうか?」もう五十年以上同じ質問を受けているが未だにどう答えていいか分からない。皆さんはどうだろうか。息子に聞くと「ツーブロック」とか専門用語もあるようだが、ヘアスタイルの専門誌でも見ない限りそんな言葉は思いつかない。
こちらが迷っていると「耳は出しますか」とか「刈上げはしない方がいいですか」とかの質問が来るが、床屋さんはそれで全体のイメージが出来るのか不思議でならない。そんな事は例えて言えば車のスタイルを表すのに「テールランプが細長い」とか「リアウィンドウにワイパーがついている」とか抹消の事を確認しているに過ぎないと思うから。車の姿を全体的に伝えるための「スポーツカー」とか「セダンタイプ」などの言葉に相当する髪型を的確に表現する語彙を思いつかないから困るのだ。
床屋さんもプロならば素人が知らないそういう語彙を提示すべきではないか。「謹厳実直タイプにしますか、それともチョイワル親父風がいいですか」などと。出来ればこちらの頭の骨格や面長か丸顔かなどの特徴から髪型を提案してくれると「流石はプロだ」と敬服するのだが。
プロの気概を疑わせるような事が家のリニューアルでもあった。水回りの工事を担当した業者さんが仕事が終わって帰り際に「何かあったら連絡して下さい」と言う。一見親切そうな対応だが、私には疑問だった。プロなら何も問題がない事をはっきり確認してから仕事を終わるべきだと思ったのだ。何かあったら連絡しろとは、つまる所最終検査を顧客に委ねているに過ぎない。案の定細かい水漏れがあって、水はけの悪い場所で水溜りが出来てしまった。
政治家にもプロの気概を疑わせる人がいる。あれも何とかして欲しい。

2017年8月8日火曜日

文明病

脳梗塞で倒れた同期入社の友人を友達と一緒に見舞った。言葉にはまだ不自由が残るが、歩く事も摺り足でゆっくりながら出来るようになったし、食事も自分で出来るらしい。順調な回復に安心して施設を後にし、まだ日は高かったが見舞った仲間で駅前の寿司屋で懇親会とあいなった。
誰が言い出したか「動物にも脳梗塞はあるのだろうか」という話題になった。アメーバーのように元々脳と言う機関のない動物はなりようがないのだろうが、魚や蛙など脳が小さい動物は脳梗塞になる事がないように思える。そう思うと、人間の病気の多くが動物にはなくて人間だけしか罹らないのではないか。例えば糖尿病など、動物園で贅沢している動物ならいざ知らず、野性の動物は罹らないような気がする。痛風もおそらく野性のライオンやキリンなど縁がなさそうだ。
遺伝子の異常から起きる癌のような病気や、ウィルスや細菌が媒介する感染症などは野性の動物にもありそうだが、運動不足や食べすぎが原因のいわば文明病は人間特有のものに思える。
脳梗塞や糖尿病が文明病なら、なにかと怠惰になるのも文明病の一つなのだろうか。我が身を振り返って、怠惰な習慣はすぐ身につくのに勤勉な習慣はなかなか身につかない。毎日一万歩歩こうと決心しても三日坊主で終わるのに、毎晩酒を飲む習慣はすぐに身についてしまう。それどころか振り払おうと思っても離れてくれない。
野生の動物は怠惰だったら生きていけない。縁側で昼寝をしている猫だって、鼠の姿を見たとたん、人が変わったように精悍で俊敏な動きをする。怠惰ゆえに餓死する動物は人間だけではないだろうか。

人間はいつからこうなったのか。猿人は怠惰だったろうか。クロマニョン人は怠惰だったろうか。縄文人は怠惰だったろうか。

2017年8月1日火曜日

閉会中審査

ちょっと的外れかも知れないが、国会の閉会中審査を見て思ったこと。
日本維新の会の議員が「大学の獣医学部の新設を認めないのは営業の自由を保障した憲法に違反するのではないか」というような質問をした。文科大臣の答弁はいろいろ理屈をつけて法律違反ではない事を説明していたが、私もその議員の意見に同感で、ただ問題は私学助成にあると思う。
大学が新設されるとそれに対して国が助成を行わなければならないという法律があるかどうか知らないが、もし一切助成は要らない、全てオウン・リスクでやるから新設を認めてくれと言って、なおそれを許さないというのであればこれは権力の濫用と言わざるを得ない。
前川さんは一言もその事を言わないが、彼が守りたかったのは獣医師会の既得権益ではなく税金の適正な運用先であって欲しい。大学の新設を認めるとそこに沢山の税金が流れていく。だからそれが社会的に見て効用の高い使い道かどうか客観的な検討が必要で、一政治家の恣意で左右されてはならない、と。
加戸参考人は税金を使う事に殆ど抵抗がないようだ。愛媛県では県職員の給与と学校教員の給与に開きがあるから教員給与を引き上げるべしと主張しておられた。地方では民間人に比して公務員の給与が高すぎると、鹿児島県のある市では市長がそれを是正しようとして引き摺り下ろされた事がある。加戸さんのようにどっぷり公務員の世界に浸かった人は税金で高給を食むことに全く違和感がないのだろう。

国の借金はGDPの二倍にまで膨れ上がった。税金の使い方に問題がない事を祈るが、税金の甘い汁を吸っている人が沢山いる事も事実。借金のツケはいずれハイパーインフレか預金封鎖などによって国民が負担させられる事は目に見えている。