2018年5月29日火曜日

体育会系

日大の選手が犯した犯罪的な危険タックルの映像は衝撃的だった。あまりに酷い。それを不問に付そうとする日大関係者の態度も信じられない。
そもそも当該選手の体格に改めて驚いた。試合のビデオを見る限りでは周囲の選手が皆大きいせいか特別大きな選手には見えなかったが、会見場で一般の人と比較して見るとその体格が目立つ。あの体で無防備な後ろから思い切りタックルされたら、そりゃあたまらないだろう。むち打ち症どころではないダメージがあったのではないか。
閉鎖的な体育会系組織の体質も改めて感じた。当該選手が退部を申し入れた時、強く慰留されたというのもその一端。仲間意識が強く、構成員が集団から離脱する事を極端に嫌う傾向があるようだ。私もかつて地元の少年サッカーチームの役員を辞する時似たような経験をした。会への出入りはもっとドライで自由で良いと思うが。
監督・コーチ・選手のピラミッド組織も衝撃的だった。選手はコーチを通してしか監督と話をする事も出来ないようだ。そのコーチの関西なまりも気になった。日大豊山高校でアメフトを指導していた人のようだが、どういう経緯で関西の人が日大で教える事になったのだろう。
ラグビーやアメフトなどのある種陣取りゲームのスポーツは戦争の擬態と言っていいから、そのチームが軍隊に似たような性格を持つのはやむを得ないのだろうとは思う。軍隊においては上官の命令が絶対だし、個人の自由は当然のように制限される。とは言っても戦争そのものではないのだからやはり自由は尊重されるべきだろう。
若い頃から体育会系にはある種のアレルギーを感じていた私だが、最近テニスに熱中すると、若い頃テニス部に入っていれば良かったのに、と後悔する事もしばしばではあるが。

2018年5月22日火曜日

士農工商

士農工商という言葉も考えてみれば不思議な言葉ではある。先日テレビの朝のワイドショーで、福袋を買占め・転売して利益を得ようとする中国人の集団に対し、中国国内からも「働かずに金儲けしようとする不逞の輩だ」との批難が出ているとの話があり、改めて「商」が最下位に位置づけられているこの言葉を思い出したものだ。
広辞苑をひくと「江戸時代の封建社会の身分観念に従って、上位から順に並べたもの」とある。確かに「士」が斬捨て御免の特権を与えられる程最上位の位置にいたのは分かる。しかし二番目の「農」に「工商」より身分的に上だという意識があったのだろうか。町民が街で農民に出会った時、頭を下げただろうか。おそらくノーであろう。
カーストにしろ、革命前のフランスの身分制にしろ、聖職者が最上段に来るのが世界の趨勢なのに、それがないのはどうしてか。幕末においては、武士より公家の方が上という意識があったように思うがそれがないのはどうしてか。
宗教関係者が入っていないこと、商への蔑視などからすると、士農工商は多分に儒教的価値観に基づく中国由来の発想ではないかという気がする。士も武士ではなく士大夫をさしていると思えば理解しやすい。儒教的価値観においては「商は詐なり」という言葉があるそうだ。世の中に何らかの価値あるものを生み出す農業や職工と違って、単に物を左から右へ移動させるだけで暴利をむさぼるからだ、というのだ。
しかし、現実社会において、流通の果たす役割が重要であるのは論を待たない。今をときめくアマゾンだって商の価値を具現化しているとも言える。そうは言っても冒頭の福袋の転売を正当化する理論を思い着く事がどうしても出来ない。福袋という形態がそもそもビジネスの基本型から外れているからだろうか。

2018年5月15日火曜日

植物の不思議

不思議な事に出会うと嬉しくなる。出来ればそれを解決できるといいのだが、能力が足りないので「不思議だなあ」と悦に入って終わってしまうのがなんとも悔しい。
今年の三月は気温が高く、桜の開花が早かった。例年よりも一週間は早かっただろうか。外気温の変化によって開花時期が変化するのは桜がどこかで気温を検知しているという事だろう。動物には神経という組織があってそれで温度や光や圧力などを感じているが桜を初めとする植物にも似たような組織があるらしい。
我が家の近くに権現堂堤という桜の名所があって、そこでは土手には桜並木が、下の畑には菜の花畑があって例年だとピンクと黄色の二重奏を楽しめる。だが今年は何故か桜の開花に菜の花が間に合わず、ピンクだけの寂しい花見になってしまった。菜の花が桜と一緒に開花しなかったのを見ると菜の花は気温を感知して咲くかどうかを決めている訳ではないようだ。ならば何を基準にしているのか。太陽が出ている時間の微妙な変化を感知しているのだろうか。季節の変化を知るものとして気温と太陽くらいしか思いつかないが。
神経どころか植物には筋肉に相当するものもあるようだ。ひまわりを見るとそう思う。花が太陽を追っかけるように首を回す。どう考えても茎のどこかに筋肉と運動神経がないと出来ない技だろう。太陽の方向が分かるのだから眼に相当する組織もあるわけだ。
植物というと何もしないで何も感じずじっと風雪に耐えているという印象があるが、なかなかどうして賢く環境を理解し、利口に立ち回っているように思える。近親相姦を避けるために自分が出した花粉が自分の雌蕊につかないよう工夫したり、しまいには雄雌別の株になったものもいる。植物あなどるべからず。

2018年5月8日火曜日

三代目

「売家と唐様で書く三代目」という言葉がある。韓国の三代目はどんな字で書くのだろうか。
それにしても韓国の所謂財閥三代目の所業には開いた口が塞がらない。一部の現象を見てそれが全体にも通じるものだと思うのは私の最も嫌う思考パターンだが、次々に報じられるスキャンダルを見ていると、かの国全体を覆う病なのではないかと思えて来る。
日本の大金持ちの三代目にも勿論ああいった横暴な人もいただろうが、落語などで描かれるのは、生活力がなくて、遊び好きで、遊女にも簡単に騙されるようなお人よしで、しまいには親から貰った財産を売り飛ばす羽目になるが、それでも洒落た字を書くだけの教養を身につけている。韓国の三代目の態度からは、教養の香りがしないのは何故だろう。
日韓の三代目の違いは文化によるものなのか教育によるものなのか。
韓国の文化は「恨」の文化だと聞いた事がある。ナッツ姫が謝罪のために報道陣の前に出た時の表情はまさにそれを感じた。素直に反省しているというより、目を下から上に向けて、何かを内に秘めているような、そんな感じがした。「恨」と言えば、前大統領に対する社会の糾弾もそれに関係しているように思える。
日本には「恥」の文化があって、それが権力者の行動に一定の縛りを与えているように思っていたが某事務次官の所業を見るとそれも危うくなってきた。所轄大臣は「セクハラは犯罪でない」と開き直っている。モラルの基準を「恥」から「法」へ一段下げようとでも言うのだろうか。
教育に関して言えば日本も韓国も儒教を道徳の基本にしてきた。孟子は「惻隠の心無きは、人に非ざる也」と言っている。惻隠の心があれば決してあのような恥ずべき行動に到らなくて済むはずなのに。

2018年5月1日火曜日

福田の不思議


財務省の福田前事務次官の処分がようやく決まったようだ。
この事件、とても不思議だった事の一つがどうして財務省が個人のスキャンダルにこうも肩入れするのかという事だった。普通の会社の場合どうか。社員が満員電車の中で痴漢の疑いを掛けられた時、当該会社は顧問弁護士を立ててまで社員の身の潔白を証明しようと努力するだろうか。仮にそれが冤罪だったとしてもその証明は全て個人に委ねられる。百歩譲って会社が社員の冤罪を晴らそうとする場合があるとすれば、その会社が個人所有で、当該被疑者がそのオーナーであったというような場合だろう。だとすると財務省の今回の対応はまるで財務省が事務次官の個人所有の組織であるかのようなものだったと言わざるを得ない。
福田氏の対応も不思議だった。身に覚えのない痴漢の疑いを掛けられた者は、自分の持っている情報を総動員して身の潔白を証明しようとするのが普通だ。「全体を見れば分かるはずだ」との発言は、自分が持っている情報を全て曝け出せば真実が明かされ、疑いは晴れるはずだ、という意味に取れる。ならばどうしてそれを実行しようとしないのか。こんな事を言って、それを実行しないのは自分が黒だと言っているに等しいではないか。頭が良いと言われる人がそんな簡単な理屈も分からないはずはないのだが。
福田氏に聞いてみたい。相手が片山さつき氏でも同じような言葉を掛けましたか、と。福田氏は若い頃同期入省の片山氏に興味があったらしいと週刊誌は報じている。カトリーヌ・ドヌーブではないが、男性が女性に対し性的魅力を感じる事を一律に否定する気には私はなれない。福田氏が批難されるべきはその言葉が性的であった事以上に(下品さは別にして)、相手に対する敬意の欠如と立場を不当に利用した事にあると私は思う。