2018年5月22日火曜日

士農工商

士農工商という言葉も考えてみれば不思議な言葉ではある。先日テレビの朝のワイドショーで、福袋を買占め・転売して利益を得ようとする中国人の集団に対し、中国国内からも「働かずに金儲けしようとする不逞の輩だ」との批難が出ているとの話があり、改めて「商」が最下位に位置づけられているこの言葉を思い出したものだ。
広辞苑をひくと「江戸時代の封建社会の身分観念に従って、上位から順に並べたもの」とある。確かに「士」が斬捨て御免の特権を与えられる程最上位の位置にいたのは分かる。しかし二番目の「農」に「工商」より身分的に上だという意識があったのだろうか。町民が街で農民に出会った時、頭を下げただろうか。おそらくノーであろう。
カーストにしろ、革命前のフランスの身分制にしろ、聖職者が最上段に来るのが世界の趨勢なのに、それがないのはどうしてか。幕末においては、武士より公家の方が上という意識があったように思うがそれがないのはどうしてか。
宗教関係者が入っていないこと、商への蔑視などからすると、士農工商は多分に儒教的価値観に基づく中国由来の発想ではないかという気がする。士も武士ではなく士大夫をさしていると思えば理解しやすい。儒教的価値観においては「商は詐なり」という言葉があるそうだ。世の中に何らかの価値あるものを生み出す農業や職工と違って、単に物を左から右へ移動させるだけで暴利をむさぼるからだ、というのだ。
しかし、現実社会において、流通の果たす役割が重要であるのは論を待たない。今をときめくアマゾンだって商の価値を具現化しているとも言える。そうは言っても冒頭の福袋の転売を正当化する理論を思い着く事がどうしても出来ない。福袋という形態がそもそもビジネスの基本型から外れているからだろうか。

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