2018年6月5日火曜日

雑草

「雑草という名前の草はない」は昭和天皇の有名な言葉だ。そして「どの植物にも名前があって、それぞれ自分の好きな場所を選んで生を営んでいるんです。人間の一方的な考えで、これを切って掃除してはいけませんよ」と庭の手入れをする侍従たちに仰ったそうだ。
数か月ぶりに出雲の実家に帰省し、庭に生い茂る草を目の前にしてそのエピソードを思い出した。前回の帰省時に除草剤をたっぷり撒いておいたはずなのに、そうした努力をあざ笑うかのように旺盛な生命力を誇示している。視覚的にはこれらをきれいさっぱり駆除したいというのがしがない平民の実感だ。
草取りをしているとサツキの根元に可憐に咲く紫色の花があった。花に詳しい友人に写真を送って名前を尋ねると「紫つゆ草」というらしい。勿論これは群生しているというのではなく、茎の二三本が懸命に生をつないでいるように見えた。流石にこれを根っこから引き抜いてしまうには気がひける。
花も含めてあらゆる生物に貴賤はないとは思うのだが、堂々と繁茂して自己主張をする名も知れぬ草と、紫つゆ草の可憐な姿を比較すると、どうしても依怙贔屓をしたくなってしまう。もし雑草とそれ以外を区別する要因があるとするならば、それは生命力の強弱であろう。
雑草は生命力が強く放っておいても生きていく。だから人間が多少手荒に扱っても大丈夫。それを草取り草刈りの大義名分としよう。逆に観賞用の花や食用の野菜などは人間が手を貸さないと生きてはいけないらしい。
そんな事を思いながら翌日玄関を出てみると前の道路の縁石の隙間に紫つゆ草が自生していた。人間の手を借りて生きているとはとても思えない。その生命力からすると紫つゆ草も雑草の一種なのだろうか。どうやら考えを変えないといけないようだ。

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