2018年6月26日火曜日

一神教

ユダヤ教やイスラム教が偶像崇拝を禁止する理由がよく分からなかった。そんな中、同じDNAを持つキリスト教が十字架に磔にされているイエスの像やマリアの像といった偶像の崇拝を許しているのも不思議と言えば不思議だ。偶像崇拝の禁止は愛する人の写真を見てはいけない、と言っているようだ。恋しくて会いたくてたまらないのに会えない人がいて、せめてその人の写真を見て一時の淋しさしのぎをしようとするのはいけない事なのだろうか。
そんな事を思いながら一神教の神様の嫉妬深さを思い出した。モーセの十戒は「わたしのほかに神があってはならない。」で始まる。信徒が自分以外の神を崇めようものならその怒りは凄まじい。神様に人間社会の基準を当てはめたら不遜であろうが、私の目には嫉妬にしか見えない。この嫉妬が偶像崇拝の禁止につながっているという仮定はどうだろうか。
偶像を作る時、人間はそれが神の姿を映したものだと思っている。だが、人間は神を見た事もないし、神の姿を正確に表現する事も出来るはずがない。一神教の神から見ると、人間が崇めている像はどう見ても自分の姿ではない。人間が偶像を崇拝する姿を見ると、神は人間が自分以外のものを崇拝しているように思えるのではないか。それを嫉妬深い一神教の神が許すはずがない。
キリスト教が偶像崇拝を許すのは、その像がまさに現に存在したものだからだ。イエスが十字架に磔にされたのも、マリアが慈悲深く我が子を抱いているのも、まさに現にこの世に存在したものであり、他のまがいものでは決してない。エホバやアッラーは想像するしかないがイエスやマリアはまさにそのままを描ける。
多神教では山や岩そのものが神だ。多神教の神は寛容で民は謙虚だ。多神教たることを誇りとすべし。

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