2018年10月30日火曜日

立場

プリンセス駅伝、岩谷産業の飯田選手の四つん這いになっても襷をつなごうとする姿を皆様はどういう思いで御覧になっただろうか。ネットでは様々な反響・意見が飛び交った。
「良く頑張った」と素直に賞賛する声、「見ていて辛かった、涙出ました」と同情する声、「あまりに痛々しい。これは美徳とは言えない」と関係者を批難する声、「精神論で讃えるなんて馬鹿だ」という醒めた声もあった。
私自身、テレビ映像を見てまず驚いたのと、上記の様々な意見の全部に符合するような複雑な思いが胸をよぎった。そして思ったのはそれらは事の是非やどうあるべきかを論じたものではなく、それぞれの立場での思いを表明したものなのだと。意見の違いは価値観の違いによるものではなく、立場の違いによるものなのだ。00000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000
素直に賞賛する声は、おそらく選手自身の立場に立ったものだろう。その意見を述べる人は多分、あの選手と同じ立場に立った時、同じ行動を取るに違いない。同情する声は、選手の親族の立場に立って事態を見守った人達だ。仮に我が子があのような行動を取ったとしたら「分った、もう十分頑張ったよ。お前の気持ちは皆に通じているよ。」という思いで胸が一杯になっただろう。関係者を批難する声は、選手を育成する立場で見た人達だろう。選手の有望な前途がこの事で台無しになってはいけない、選手の将来を第一に考えるべきだ、という思いが背後に見える。
そう思うと制止しなかった審判や関係者を批難する気になれない。選手の所属チームは大会後、大会運営者を批難するコメントを発表したが、審判達は選手の立場に立ち、彼女に感情移入して、自分ならここでギブアップしたくない、もう少し頑張らせたいと思っての事だったであろうから。

2018年10月23日火曜日

奈良判定


もういささか旧聞に属するが、日本ボクシング連盟は奈良判定を始めとして色々な話題を提供してくれた。
話題の主であった前会長はチンピラ然とした服装や言動や、気に入らない事があるとステージの上で脚を強く踏み鳴らして不満を現す姿は子供がダダをこねているようで、なかなか笑えるキャラクターではあったが、当事者はそう暢気な事を言っても居られなかったのだろう。前会長への忖度に端を発した不正疑惑を調査した第三者委員会の報告書が先月末に公表された。
「理事全体の責任 指摘」との見出しのついた記事を読むと、第三者委員会の提言はかなりの部分が別の忖度事件、安倍判定とも言うべきモリカケ問題の関係各者にも当てはまるのではないかと思われた。以下、その提言を抜粋してみる。()内は筆者の注釈。
一、関係者の意識改革
役職員は(政府関係者は)組織を統括している事や、競技の普及振興を図る職責を担っている(国政を担う責任を)自覚する。
二、地方との連携強化
地方の意見に耳を傾け、連携を強化する必要がある。
三、(略)
四、ガバナンスの強化
風通しの良い運営体制や情報開示、執行部から独立した懲戒制度(政府から独立した司法制度)などが必要。
五、(略)
六、公平性の確保と強化
審判の(司法の)判断が影響を受けないよう、審判委員会を(司法を)独立させる。
七、定款、規約等の順守
法規や倫理規定を役職員が学ぶことが必要。
八、(略)
九、財務基盤充実への努力
(財政赤字はなんとかしないとね)
以下略。いかがなものだろうか。

2018年10月16日火曜日

頭が良い

九日に行われた沖縄は翁長知事の県民葬での菅官房長官の弔辞にちょっと驚いた。「(沖縄の発展のために)尽くされて来られました。」と。非常な違和感を感じた。内容にではない、敬語の使い方にだ。「尽くして来られました」か「尽くされました」なら自然だが、二重に敬語を使うのはどこか変ではないか。
恐らくは官房長官側近の優秀な官僚、所謂特別に「頭が良い」と言われる人が原稿を書いたのだろう。こんな変な日本語を聞くと「頭が良い」とはどういう事なのだろうという疑問が湧く。
まあこれはちょっとしたケアレスミスなのかも知れないが、国会で苦し紛れの答弁を繰り返す官僚達の姿を見ていても、学校で良い成績を取っていた人が必ずしも「頭が良い」という訳ではないように思える。記憶力が良い事や計算が速い事も「頭が良い」事の一面ではあろうが、ぴったりした定義とは遠いようだ。
逆に「頭が良くない」と思えるケースを考えてみる。日馬富士の暴行事件以降貴乃花親方が取った行動はどちらかと言えば「頭が良くない」行動のように私には思えた。自分が求めている結果を得るために為すべき事と違う方向に走ったような。東京から北海道に行こうという時、西に向かう電車に乗ったような。アメフト暴行事件の後に日大関係者の取った行動も似たようなものだった。
頭の良さとは、事後を的確に予測し自分の望む物事を手にすべく行動できる能力ではないか。こういう行動を取ったら相手方にどういう印象を与え、広く世間の評判がどうなるか、そういう予測が出来て、的確な行動が取れること。太閤秀吉はその能力に長けていたように思える。学校の勉強を通じてそういう能力が身に付けばいいのだが、なかなかそうならない所が難しいところだ。

2018年10月9日火曜日

言論の自由

新潮45の休刊(廃刊?)はヴォルテールの言葉を思い出させた。「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」。言論の自由を主張した言葉として知られている。
新潮45を直に読んだ訳ではないが、基本的には自分の意見を述べる事が制限を受けてはならないと考えている。言論が制限を受けるとすれば、例えば街宣車でがなり立てるような高圧的に相手の自由を侵害するものであったり、事実と異なる明らかな虚偽であったりする場合だろう。
ヘイトスピーチや下品な論評はある意味ストリーキングに似ていると思う。自制されるべきものであり、他人が制約するものではないという点において。現在街中を裸で歩き回るのは刑法で禁止されているが、それは見る人の中に判断能力の未熟な年端も行かない青少年がいて、彼等への悪影響を考慮しての事だろう。ヘイトスピーチも同じで、本人が回りの冷笑と失笑を覚悟で行う事なら他者への強制を伴わない限り許されても良いではないか。ある言論を過激だ、偏向している、として制限するのは読者が未熟で判断能力のない馬鹿だという前提に立っているようで、極めて不愉快だ。
虚偽は許せない。サンデー毎日の最新号でジャーナリストの江川紹子氏は「(杉田議員の)論文は、あたかもLGBT(性的少数者)の支援に多額の税金が充てられているかのように書かれています。」と言っている。杉田議員がウソを書いているならそれは問題だ。だが、江川氏の「関連予算は全体の0.01%にすぎません。」という主張もどうか。金額を書かないのは少なく思わせようと真実をぼかしているようにも見える。
勿論杉田議員を支持している訳でなく、彼女の発言の自由を認めているだけだ。冷笑を交えて。

2018年10月2日火曜日

芸術


日本橋の三越本店では例年秋に日本伝統工芸展が開かれる。今年も十月一日まで開催されていた。ちなみに島根では十二月五日から二十五日まで県立美術館で開催される予定との事。
陶芸、染物、竹細工、彫金、螺鈿など細心の注意を払った緻密な手仕事の結果生まれた作品の静謐なたたずまいを見ていると頭の下がる思いがする。それに比べて一部の前衛芸術のなんと安易な事か。全ての前衛芸術がそうだとは思わないが、例えば全身に絵の具やペンキを塗って真っ白な壁に体ごとぶつかっていって、その時に出来る模様を作品だと称するようなものだったり、ペンキの入ったバケツをひっくり返して出来る模様を有難がったりするような、そんな製作風景を見ると、もっと伝統工芸を見習ったらどうかと言いたくなる。
芸術とは創作する側に才能や努力や一種の呻吟があって、鑑賞する側に審美眼や作品に対する敬意があって成立するのだと思う。伝統工芸を見ているとクラシック音楽を思い出す。創作・演奏する側の苦労が鑑賞する喜びを提供しているようだ。
その点ジャズは違う。ジャズの演奏会へ行って思うのはどう見ても聴いている側より演奏している側の方が楽しそうだと言う事だ。楽しみながらお金を取るなんて、ずるいじゃないかなんて思ってしまう。勿論、一定以上の技量があるからこそお金を払ってまで聴きに来る人がいるのだが。ジャズでは努力や呻吟は技量を高める練習の段階でなされて、最終の作品段階ではそれを感じさせないのが良いのだ。翻って伝統工芸では最終の作品は控え目で禁欲的だが、製作過程では作者は結構楽しんでいるのかも知れない。
なかなか上達しないジャズピアノの練習をしながら思った。楽しむって芸、染物、竹細工、彫金、螺鈿、景を見ると、もっと伝統工芸を見習なんと苦しい事なんだろうと。