2019年4月30日火曜日

平成最後の日


今日四月三十日は平成最後の日、明日からは新しい元号令和の日々を過ごす事になる。そして恐らく我が人生で令和最後の日を迎える事はないだろう。改元の日を迎えるのはこれが最後の経験になる訳だ。

昭和に生まれ、昭和で物心がついて、昭和で少年・青年時代から壮年の入り口まで過ごした身としては元号の四十年、五十年が当り前のような感覚がするが、丸三十年以上続いた平成も長い部類に属する。江戸時代で二十年以上続いたのは慶長、寛永、享保の三つしかない。令和と音の似ている明和(RMだけの違い)は九年で改元された。それは明和九年が迷惑年と読めるからだ、なんて逸話も残っている。

この三十年で一番変化したのは通信の世界ではないだろうか。昭和が平成に変わった頃、ショルダーフォンや自動車電話が出始め、パソコンはアナログ電話を通して通信していた。当時のモデムの性能は2400bpsで、単純に計算すると一秒でアルファベット三百文字を送れた。モールス信号でカタコト情報を送っていた頃から比べると夢のような速さだった。その後2Gと呼ばれるいわゆるガラケーが出て、今や通信規格は5G。通信の速さを比較するとDVD一枚のデータを送るのに2Gでは181.3日掛かったものが、5Gでは1.9秒で送れるらしい。三十年前には一年掛かった事がわずか4秒で出来るようになった、という事だ。
国立公文書館の「江戸時代の天皇」という特別展では元号の選定などに関する資料と共に、小渕官房長官が掲げた例の「平成」の額の現物が展示されている。上質な紙が使われ、厳密な環境管理の元に保管されていたのであろうが、よく見ると周辺部はいくらか黄ばみが入り、小さなシミ、汚れと思える点も見えた。それが三十年の長さを実感させた。

2019年4月23日火曜日

他人事


先週は他人事とは思えない出来事が二つあった。

一つは池袋で起きた交通事故。暴走車が横断する人をはねたあの交差点は私も毎月二度は通っている場所だ。車を運転していたのは例の如くにお年を召した方。テレビのコメンテーターの中には「一定の年齢以上になったら全員免許を取り上げるべきだ」などと発言する人もいたが、その人もその年齢に達したら他人事ではなくなるであろう。

もう一つは名古屋で起きた高速バスのトラブル。バスの出発時刻にわずかに遅れた乗客が発車したバスを追いかけ信号で止まった際に「乗せろ」と強要したとされる事件だ。「乗せてあげればいいじゃないか」という状況に見えたが、バス停以外の場所での乗降は法律で禁止されているそうで、それを盾に運転手は乗車をかたくなに拒んだ。

法律を犯すのは悪いことには違いない。だがすべての法律にその制定の趣旨があって、何を守るためにその法律があるのか、保護法益を考えてみれば常識的な妥当な対応が出来るはずだ。バス停以外での乗降を禁止するのは、それによって周辺の交通に支障をきたすからであって、信号待ちで停車している時に客を一人乗せる事がそんなに悪い事には思えない。その事で不幸になる人は一人もいないではないか。幸福になる人しかいなくて不幸になる人がいない事をやってはいけない理由が分からない。
そもそもバスを追いかけて捕まえられたのだから遅刻はせいぜい一分以下の事と思われる。運転手は人数を確認して予約している人が足りない事も認識していたはずだ。出発時間を少し待つ事が出来なかったのか。トイレ休憩で止まった時、たまたま便秘気味で集合時間に間に合いそうにない時、置いて行かれてしまうのだろうか。あのバスは私も良く利用する会社だった。他人事ではない。

2019年4月16日火曜日

桜雑感


天候不順と言っていいのだろう、四月も中旬になろうという頃の真冬日で、押入れから慌てて防寒用のズボンを引っ張り出した。暑さ寒さも彼岸まで、の筈じゃなかったのか、と誰かに苦情の一つも言いたくなった。

三月初めの温かさで開花の早かった桜は散る時期を思案しているかのようである。参加者の日程調整の関係で四月八日に予定された花見の会に、桜が残っていようとは望外の幸運ではあった。気温が低い日が続くとかなり強い風が吹いても散らずに残っているのは不思議な事である。

桜の開花日は気象庁のお墨付きで決定され記録されているようだが、散った日というのは定義されていないのだろうか。標本木に咲いている花が五輪以下になった日をもって散花日ないし落花日などと定義しておけば、今年は開花日から落花日までの日数が一番長かった年になっただろう。

それにしても桜の開花や満開の日を決めるのにお上のご宣託を必要とするなんて、日本人らしいと言うかちょっと情けなくもあるが、それだけ民衆がお上を信頼している証なのだろう。少なくともどこかの発展途上国の独裁者のように無茶苦茶をするようなお上はいなかった。だから何かあるごとに「国がなんとかするべきだ」との議論が巻き起こる。国はいつも全能の正義の味方であるかのように。

まさか親が子を虐待するのを禁止する法律が出来ようとは思わなかった。勿論親の暴力行為を容認するつもりは毛頭ないが、そういう家庭内の事は法律でどうこうするようなものではないはずだ。

放っておけばいつも民は悪だくみを画策し、だから全知全能の国がしっかり監視指導しなければならない、なんて誰も思っていないとは思うが、国への期待が高すぎる世情を見るとちょっと不安にもなってくる。桜とは関係ない話だが。

2019年4月9日火曜日

自動運転


鳥取県八頭町で自動運転バスの試験走行が開始されたというニュースを見た。こう言っては失礼かも知れないが、どちらかと言えば田舎に属する町で先進的な試みがなされる事を嬉しく思った。道路の交通量が左程多くないのも好都合だったのだろうか。

自動運転の車を見ていつも不思議に思うのだが、運転手がハンドルの前に手を出して掌を上に向けて待機している。手を膝の上に置いて待機するのはいけないのだろうか。腕を宙に浮かすあの姿勢を長時間保つのはさぞ辛い事だろうに。万が一の時のためにさっとハンドルを握れるようにという事なら最初からハンドルを握った姿勢を取ればいい。ハンドルに力が加わると自動運転システムが誤動作するとでも言うのだろうか。そのくらいの調整はAIでやって欲しいものだ。あの不自然な姿勢は単なる初期のデモンストレーションだけの意味であると信じたい。そうでないととても自分では利用できそうもないから。

八頭町の試験走行の映像が撮られた時たまたま小雨が降っていた。フロントガラスについた雨だれをぬぐうためにワイパーが作動した。あのワイパーを動かしたのは運転手なのだろうか、それとも自動運転システムなのだろうか。

ワイパーでフロントガラスをぬぐうのは外界を正確に認識するためである。人間の運転手はそうしないと外界の様子が良く分からないからワイパーを動かすが、自動システムには各種センサーが備わっていて、フロントガラスが曇っていてもちゃんと外の様子は認識できるはずだ。逆に自動運転を支えるカメラや超音波装置が雨で曇るようだと困ってしまう。
私が後期高齢者になるまでもう十年もない。その頃やはり車には乗りたいので自動運転に対する期待は大きい。試験走行の成功を願ってやまない。

2019年4月2日火曜日

解説


出雲の稲妻・里見香奈女流四冠、NHK杯トーナメント出場おめでとう。女性枠の一つを争う決勝戦は手に汗握る好局だった。西山女王のちょっとしたスキを突く機敏な角打ちで流れをつかんだ里見さんに対し、金桂交換を甘んじて忍んだ西山さんが巻き返し、最後は西山さんの勝ちになったかと思われた局面もあったが、最後の最後に里見さんが得意の終盤力で抜け出した。

こんな事を書けるのも解説の高見叡王の的をついた説明があったればこそである。

将棋・囲碁の番組は解説の巧拙で大きく左右される。勿論対局者の技も大事な要素であろうが、プロの技を素人の視聴者がちゃんと評価吟味出来るかどうかは解説にかかっている。対局者の着手は膨大な読みのほんの氷山の一角に過ぎない。高見叡王はその水面下の氷山の様子を説明してくれた。「この局面で放っておくとこんな手があります。」等と。それを見透かして相手は何らかの対処をするわけだが、受け一方の直接的な対処でなく、他にも狙いを持った間接的な受けをする。事前の説明があるからこそ、間接的な受けの意味も理解できるが、そうでなければどうしてそんな手を指したか理解できない。

終盤詰むや詰まざるやの局面でも高見叡王は「時間があればもっと解説したいんですが」と言っていた。私もその解説を聞きたかった。NHKはこういう事にもっと配慮できないだろうか。

そう言えばここ二十年くらいNHKは将棋の序盤の解説を一切しない(させない?)方針のようだ。良心的な解説者は「ちょっと戻してみましょう」と言ってやってくれるが、たいていの場合駒がぶつかる寸前まで無言の放送になっている。

序盤の解説もして欲しい、と何度も投書でお願いしているが梨の礫の完全無視。NHKは受信者を何だと思っているのか!せめてその理由・意図でも連絡してくれればいいのに。