2020年3月31日火曜日

カタカナ語

新聞もテレビも新型コロナウィルスにハイジャックされたみたいで、気分の浮かない日々が続く。そんな中「オッ」と思わせる記事に出会った。「カタカナ語、見直して。河野氏、厚労省に申し入れ」と題する記事で、河野防衛大臣が参議院外交防衛委員会でカタカナ語を多用しないよう厚生労働省に申し入れた、というものだ。
クラスターだのオーバーシュートだのロックダウンだの、カタカナ語が氾濫する新型ウィルス報道だが、それぞれ感染集団、患者急増、都市封鎖の方が分かりやすいし、そちらを使うべきではないか、というのだが、まさにその通り!相手を煙に巻きたいという意図でもあるのならともかく、不要不急の外来語は使うべきではないと思う。
カタカナ語を使う意味があるとすれば、音節が短い場合であろう。「屋根付き商店街」と言うより「アーケード」と言った方が音が少なくて済み、便利だ。「野球」が「ベースボール」にならないのも音節数で説明できる。だが先ほどの三つの例はいずれも音節数はほぼ同じかむしろ日本語の方が短いくらいだ。ならばカタカナ語を使う意味がないのではないか。たまに日本語で「ちらし」と言えば済むものを「リーフレット」などとわざわざ長い言葉を使うなんて馬鹿な例もある。
下衆の勘繰りかも知れないが、カタカナ語を使う理由に自分は海外事情に詳しいのだと自負したい気持ちがあるのではないか。海外の大学を出られて恐らく海外事情にも詳しいだろう某知事は「都政に不安はないか」と問われ「ご不安はないと思います」などと答えていた。日本語の基本たる敬語など、もっと足元をしっかりしたらどうかと思ってしまった。
日本語を大事にしよう。おっと、私も「ハイジャック」ではなく「乗っ取り」と言うべきだったか。反省。

2020年3月24日火曜日

五輪モットー


開催が危ぶまれる東京五輪だが、大会のモットーなるものが発表された時の違和感が忘れられない。「United by Emotion」、「感動で、私たちは一つになる」という意味だそうだが、全くしっくり来なかった。まず「なんで英語?」という疑問、それは後で分かるとして、「一つになる」事への違和感が拭えない。
アメリカの様に民族や人種や言語の多様な人々が混在して、ややもすれば分裂してしまいそうな社会で「アメリカは一つ」という理想を掲げるのは分かるが、日本のように比較的均一な社会でこうも「一つである」事を重視するのはどうしてだろう。
ちょうどその頃NHKの「百分で名著」ではチェコの元大統領ハベルの著作を取り上げていて、二つの対照的な価値観が解説者により示された。左の四角には「統一、単一性、規律」という言葉が並び右の四角には「複数性、多様性、自身の自由の実現」等の言葉が入って、二つの四角の間には対立を示す様に両側に矢印がついた直線が描かれている。そして左の四角の上には総括する言葉として「ポスト全体主義、体制」が、右の四角の上には「個人、生」と書かれている。ハベルは勿論右の価値観の重要性を言っているし、私も左の価値観はちょっと恐ろしい。
五輪のモットーと言えば前の東京大会の時の「より速くより高くより強く」が強く耳に残っているが、それはIOCが定めた五輪全体のモットーだとか。大会モットーは英語で3~5語の短いメッセージで全世界に発信するものであるらしい。前のリオの時は「A New World」、その前のロンドンは「Inspire a Generation」だったとか。残念ながらあまり記憶にないが、今回のモットーが英語圏の人々にはどのように響くのか聞いてみたくなった。

2020年3月17日火曜日

高校野球

春の選抜が中止になってしまった。初の甲子園に期待で胸を一杯にしていた平田高校の野球部員はさぞ気落ちした事だろう。夏の大会では是非実力で出場を勝ち取るべく、気持ちを入れ替えて精進して貰いたい。
センバツ中止を伝えるニュースの中で提示されたフリップが眼を惹いた。新型ウィルスで中止になった高校の主な全国大会の種目を一覧にしたもので、左側には主に漢字が並び、右側にはずらっとカタカナが並んでいたからだ。左は卓球、相撲、剣道、レスリング、バドミントン、柔道、空手、体操、右はソフトボール、ボート、アーチェリー、テニス、ゴルフ、スキー・アルペン、ラグビーと言った具合。要するに左は屋内競技、右は屋外競技なのだが、漢字と横文字がこんなに綺麗に分かれるのは偶然だろうか。また漢字と横文字はどういう基準で使い分けされているのだろうか。
卓球は横文字ならピンポンとなるだろうが、学校の部活でピンポン部を名乗る所はまずないだろう。テニスは庭球という立派な漢字があるが、部活の名前としてはどうか。私が高校生の頃は庭球部と言っていたような気もするが、今は殆どがテニス部ではないだろうか。サッカー部だって昔は蹴球部と言っていたように記憶する。闘球部という名前は流石に記憶にないが、それはそもそも高校にラグビー部がなかったからだと思う。野球は本家ではベースボールだが、部活でベースボール部は聞いた事がない。野球(のぼーる)は正岡子規が名付け親でベースボールの直訳は塁球だが、塁球というとソフトボールを指すのだそうだ。
ところで選抜大会中止の理由の一つに「高校野球は学校教育の一環。(中略)教育の原点に立ち返った」というのがある。高校野球はやっぱりスポーツではなく体育だと言う事か。

2020年3月10日火曜日

家庭と司法

千葉県野田市の小学四年生栗原心愛さん虐待死事件の裁判報道を見ると心が痛む。そもそも親が子を殺す(あるいは作為不作為を問わず、死に至らしめる)事そのものが殆ど理解を超えている。子が親を殺すのはまあ特殊な事情があればあり得る事かも知れないと思えるし、個人が自分を殺す事も何とか理解の範囲内と言える。だが、親が子を殺すのは生物本来の決め事からはあり得ない事だ。生物界では子の為になら自らの命を捨てる親が沢山いるし、人間だって子の幸せな姿を見る方が自分の幸せより嬉しいという人が沢山いるのではないだろうか。
だが、事件は起きた。
裁判では父親の栗原勇一郎被告は虐待行為の一部を否認している。一方で母親は夫の虐待行為を認める供述をし、事実がどうであったか藪の中ではあるが、家庭の中に司法がずかずかと入り込むのもちょっと異様な姿に見える。この裁判は栗原家の人々を一層不幸にしてしまうと思えるからだ。
栗原心愛さんには妹がいると伝えられる。その子の幸せは一体誰が気遣ってあげるのだろう。お姉さんが父親の虐待で死亡し、その経緯を巡って両親が言い争っているのを見せられて、どんな気がするか。平成二十九年六月生まれというからまだ物心がつかないのがせめてもの救いだ。
傷害幇助の罪に問われた母親への被告人質問の記録を見ると、心愛さんだけを虐待した理由を検察に問われ答えに窮して沈黙する母親の姿が描かれている。また検察はこんな質問までしている。「今、勇一郎被告に対してどう思っているか。好きなのか、離婚しようと考えているのか」《再び沈黙が続く》そんな事が今回の事件の真相解明とどんな関係があるのだろう。
家庭内に司法が入り込むのは必要最低限にすべきだと思う。

2020年3月3日火曜日

ウィルス


新型コロナウィルスを巡っての混乱は収まるどころか一層大きくなるばかり、関係各位の慌てぶりを見ていると、裏に何か秘密が隠されているのではないかと不安になる。インフルエンザは毎年国内で約一千万人が感染し、約一万人が亡くなるらしい。今回のウィルスとは桁が違うが特にそれで大騒ぎは起きてない。まさか今回のが実は非常に恐ろしいウィルスで、当初はおとなしく一見大したことのないようだが後からジワジワ恐ろしさを発揮するようなものだ、なんて事はなかろうが。
今回の発端がそんな不安を掻き立てる。最初の流行は武漢市の海鮮市場が始まりだと言われる。その市場から12キロ離れたところに「ウィルス研究所」(正式には「中国科学院武漢病毒研究所」)が、280メートルの所には「疾病対策予防管理センター」(正式には「武漢鉄路疾病預防控制中心」)があるという。そこらでウィルスの遺伝子を組み替える実験が行われ、何らかのミスで新型が漏れ出したのではとの憶測がネットには流れている。
ネットには二月八日に国立感染症研究所で行われた「新型コロナウィルス感染症への対応に関する拡大対策会議」の議事録も公開されている。陽性患者を診察した医師達からは、
・発熱(微熱)が遷延すること、倦怠感が強いことが共通して認められ、そこがインフルエンザや風邪と違う印象である。
・麻疹の罹患患者くらいの倦怠感の強さと言える。
・本性の重症度については、SARS/MERSよりは低く、季節性インフルエンザよりは高い可能性がある。
などの報告がなされている。
ウィルス相手に完全な感染防止策はないだろう。治療薬が開発されるまで栄養と休養を十分取って、病気に負けない免疫力をつけるしかないのではないか。