2020年3月10日火曜日

家庭と司法

千葉県野田市の小学四年生栗原心愛さん虐待死事件の裁判報道を見ると心が痛む。そもそも親が子を殺す(あるいは作為不作為を問わず、死に至らしめる)事そのものが殆ど理解を超えている。子が親を殺すのはまあ特殊な事情があればあり得る事かも知れないと思えるし、個人が自分を殺す事も何とか理解の範囲内と言える。だが、親が子を殺すのは生物本来の決め事からはあり得ない事だ。生物界では子の為になら自らの命を捨てる親が沢山いるし、人間だって子の幸せな姿を見る方が自分の幸せより嬉しいという人が沢山いるのではないだろうか。
だが、事件は起きた。
裁判では父親の栗原勇一郎被告は虐待行為の一部を否認している。一方で母親は夫の虐待行為を認める供述をし、事実がどうであったか藪の中ではあるが、家庭の中に司法がずかずかと入り込むのもちょっと異様な姿に見える。この裁判は栗原家の人々を一層不幸にしてしまうと思えるからだ。
栗原心愛さんには妹がいると伝えられる。その子の幸せは一体誰が気遣ってあげるのだろう。お姉さんが父親の虐待で死亡し、その経緯を巡って両親が言い争っているのを見せられて、どんな気がするか。平成二十九年六月生まれというからまだ物心がつかないのがせめてもの救いだ。
傷害幇助の罪に問われた母親への被告人質問の記録を見ると、心愛さんだけを虐待した理由を検察に問われ答えに窮して沈黙する母親の姿が描かれている。また検察はこんな質問までしている。「今、勇一郎被告に対してどう思っているか。好きなのか、離婚しようと考えているのか」《再び沈黙が続く》そんな事が今回の事件の真相解明とどんな関係があるのだろう。
家庭内に司法が入り込むのは必要最低限にすべきだと思う。

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