2020年6月30日火曜日

LGBT

先日NHKで「僕が性別ゼロになった理由(わけ)」というドキュメンタリーが放映された。女性の体を持って生まれたある男性の苦悩を描いたものだった。幼少の頃は少女として育てられるが、中学生になると性同一性障害として男性と認められ、高校では名前も男性らしいものに変え男性として過ごした。そして手術可能な年齢になるのを待って(法律で制限されているらしい)乳房を切除し、子宮を摘出する。
自分の体を嫌悪するとは何と不幸な事だろう。私も下腹の出た自分の体を好きではないが、それでも少しでも体型を見栄え良くしようと焼け石に水のような努力をするのは基本的に自分の体を愛しているからだ。体と心の性が違うとはどういう事なのだろうか。
幸い私は体も心も同じ性だ。と思っている。体の方は外見上見れば分かるので特に問題はないが、心の方はどうか。性同一性障害の人が体と違う性を心の性として意識するのはどうしてだろう。今まで自分の心の性など自明の事として顧みる事もなかったが、改めてどうだろうかと考えて見た。
内田樹著「疲れすぎて眠れぬ夜のために」という本がある。その中に「男が欲しがるもの、名誉、権力、威信、情報、貨幣、女が欲しがるもの、健康、自然、愛、平和」というくだりがあった。これを読んでひょっとすると私の心は女ではないかと疑った。この基準なら少なくとも河井案里氏の方がずっと男っぽい。でも子供の頃はままごとより追いかけっこの方が好きだったし、そして何より間違いなく男だと思うのは性欲を感じる対象が女性だと言う事だ。
NHKの番組で性欲について語られる事はなかった。しかしその人がどうやって自分の心の性を決めているのかは知りたかった。レズやゲイの人は矛盾を感じていないのだろうか。

2020年6月25日木曜日

いたずら

去年(2019年)8月5日に投稿した三県境。
誰かがいたずらしたという報道があった。
一体誰が、何のために?
余酔っ払いが紛れ込むような場所ではないのに。
こんなバカな事に、大事な自分のエネルギーを使うのはやめましょう。

2020年6月23日火曜日

弱者の権利

昨年末12月24日に同じタイトルでLGBTの人達が声高に権利を主張する事への違和感を書いた。そして最近、アメリカの人種平等を主張するデモの中に虹色の服を着た人達がいた。私達LGBTの権利も忘れるな、とでも言うように。
前回ウィーンの街頭で歩行者用信号を見た時は、控えめな弱者を社会が温かく見守るのがあるべき姿だと思った。「太陽は光り輝く」という映画を見るまでは。アメリカ南部の小さな町の判事が主人公の映画で、その大きな屋敷には黒人が召使として雇われており、彼は主人の様々な命令に「はい、ご主人様」と素直に応じる。判事は召使を愛し、決して乱暴はしない。だが、その愛はまるでペットを愛するかのようだ。控えめな弱者を社会が温かく見守る構図は、こと人種差別の分野に関しては間違っている。
人種差別の問題に関しては、弱者たる黒人は強く権利を主張すべきなのだ。さもないと正義が実現されない。翻ってLGBTについて。身体は男性だが心は女性だという人が女子トイレを使う権利を主張するのはどうだろうか。昨年末の裁判では原告が勝利し、国に慰謝料など132万円の支払いを命じる判決が下りた。同じ職場で働く他の女子職員の意見は報道されないが、違和感を持つ人は一人もいなかったのだろうか。かつてアメリカ南部では白人はトイレを黒人と共用せず、その名残を今も持っている白人がいたとしたらそれは恥ずべき事だろう。服装や言葉使いは女性でも声が男性で不精をしたら髭も生えてそうな人が女子トイレに入って来るのを不快に感じるのは恥ずべき事なのだろうか。
人種差別とLGBTの問題はどこか違うような気がする。どこが違うのだろうか。それとも違うと思う私が間違っているのだろうか。どうしても答えが見つからない。

2020年6月16日火曜日

藤井七段

藤井聡太七段の将棋は芸術だ、という人がいる。飯島栄治七段。容貌も仕草も語り口も実直そのもので、篤実という言葉はこの人のためにあるのではないかと思われるような人だ。その人が言うから大袈裟でもなければ衒った表現でもない。まさにその通りだと思う。
デビューから二十九連勝をするなど、一人で将棋ブームを起こしてしまった藤井七段は今最年少タイトルホルダーの記録を掛けて将棋棋聖戦の真っ最中だ。一般紙でも報道されているからご存じの方も多いだろう。名人戦や竜王戦ならともかく、棋聖戦の第一局の勝敗が一般紙で報道されるなんて今までにはなかった事だ。
藤井将棋の素晴らしさは感動を与えてくれる所にある。将棋は好きで良く見るが今までの約六十年間、感動という言葉を味わったのはたった一度しかない。第55NHK杯トーナメントで谷川九段が藤井猛九段の穴熊を粉砕した将棋。谷川九段の裸の玉が徳俵でかろうじて残し、穴熊の堅城に籠る藤井玉を討ち取った時は感動した。
しかしこの一年、藤井聡太七段の将棋を見るたびに感動する事、三度や四度ではきかない。詰みを読み切った時には危なそうに見える橋を平気で渡る、解説者が「不利になるからこの順は選ばないだろう」と言う順を何事もないかの様に選んで結局ちゃんと有利に導いてしまう、等々勝ち方の美しさは芸術と呼ぶに相応しい。
四十年前天才の名をほしいままにした谷川九段の藤井評が的を得ていた。「私が17歳のときと比べると……。野球に例えるなら、ストレートの速さではいい勝負になる。でも、球種と制球力では藤井七段にまったく敵いません。」
恐らく向こう数十年は出て来ないと思われる天才が創り出す感動を同時代の人間として経験できる幸せを是非皆様にも味わって貰いたい。

2020年6月9日火曜日

発言と責任

政府専門家会議議事録なし、には驚いた。その理由が「専門家の立場で自由に率直な議論をいただく事が大事だ」からだというのには更に驚いた。その会議に出席している人達は議事録を取られると自由率直に自分の意見を言えないような、そんな意気地なしで無責任な人達なのだろうか。
その少し前木村花さんがSNSの誹謗中傷が原因で自殺したというニュースが報じられた。こちらは驚くというよりとても残念な思いがした。見れば可愛い乙女ではないか。これから人生の素晴らしい事が沢山待っていたであろうに。ネット世界にあふれる匿名の無責任な発言をそんなに気に病むことはなかったと思うのは部外者の気安さに過ぎないか。
インターネットが普及して誰でも気軽に自分の意見を公開することが出来るようになった。すると今までおとなしくしていた人達が堰を切ったように発言を始めた。しかも普段は使わないような過激な口調で。そういう人達に限ってネット上では仮名を使い、顔写真を明らかにしない。こうした匿名を条件に暴言を吐くネットユーザーと政府専門家会議のメンバーが同じメンタリティだとは思いたくない。
流石に尾身副座長は議事録の作成公開に問題なしと発言された。思うに今までの議事録不作成の方針は万事に責任をうやむやにしたい事務方官僚の論理の為せる業ではなかったか。自由な議論のためという理由付けは語るに落ちたの感がある。緊急事態で諸事多忙に付き議事速記の人手を割けなかった、とでも言えばまだましだった。
木村さんの自殺に対応して、SNSでの発言の追跡調査を可能にする法律が考えられているようだが、それ以前に政府関係の発言の責任明確化を義務付ける法律を策定すべしと思うが如何。

2020年6月2日火曜日

デジャヴ


日本語で既視感と言えばいいのだが、敢えてフランス語を使ってみた。デジャヴ(デジャビュとも)、初めて来た場所の筈なのに何故か前にも来たことがあるような感じ、前にも似たような事があったような、最近何度かこのデジャヴを味わった。
まずは自粛警察。営業を続ける店舗に対して貼り紙をして嫌がらせをしたり、他県ナンバーの車にいたずらをしたり。その様は戦時中、ちょっとしたおしゃれをして街中を歩く若い娘さんに対して説教したり嫌味を言った割烹着にモンペ姿のおばさん連の姿と重なる。どちらも強い正義感が根底にある。だから正義って嫌いだという人も出てきそうだ。自粛警察に少しだけ救いを感じたのは貼り紙の文言が「オミセシメロ」と敬語付きだったから。「ミセシメロ」だったら救いがなかった。
次は知事会。幕末の参預会議が思い浮かぶ。幕末の混乱期、政治の表舞台に立つ人が老中の阿部正弘や堀田正睦などから次第に松平春嶽や山内容堂・伊達宗城などに替わって行った。今でいえば中央官庁の大臣から地方の知事へという流れか。この流れで地方分権が進んで行けば良いと思うが、財源が中央に握られている限りはそうもいかないだろう。
営業自粛による休業補償も前に同じような事があった。農家の減反政策だ。仕事を休んだらお金をあげる。構図は全く同じ。緊急時だからやむを得ないにしろ経済学に反するこんな事が長く続けば食管会計どころか国全体がおかしくなってしまう。
検事長の賭けマージャン事件は全く逆のケースだった。かつては法を守るため餓死した裁判官もいたというのに。司法を預かる者がヤミ米を食べるわけにいかないと。もし黒川氏が検察庁法に反するからと言って定年延長を固辞していたらデジャヴの一つになった、かも知れない。