2020年6月23日火曜日

弱者の権利

昨年末12月24日に同じタイトルでLGBTの人達が声高に権利を主張する事への違和感を書いた。そして最近、アメリカの人種平等を主張するデモの中に虹色の服を着た人達がいた。私達LGBTの権利も忘れるな、とでも言うように。
前回ウィーンの街頭で歩行者用信号を見た時は、控えめな弱者を社会が温かく見守るのがあるべき姿だと思った。「太陽は光り輝く」という映画を見るまでは。アメリカ南部の小さな町の判事が主人公の映画で、その大きな屋敷には黒人が召使として雇われており、彼は主人の様々な命令に「はい、ご主人様」と素直に応じる。判事は召使を愛し、決して乱暴はしない。だが、その愛はまるでペットを愛するかのようだ。控えめな弱者を社会が温かく見守る構図は、こと人種差別の分野に関しては間違っている。
人種差別の問題に関しては、弱者たる黒人は強く権利を主張すべきなのだ。さもないと正義が実現されない。翻ってLGBTについて。身体は男性だが心は女性だという人が女子トイレを使う権利を主張するのはどうだろうか。昨年末の裁判では原告が勝利し、国に慰謝料など132万円の支払いを命じる判決が下りた。同じ職場で働く他の女子職員の意見は報道されないが、違和感を持つ人は一人もいなかったのだろうか。かつてアメリカ南部では白人はトイレを黒人と共用せず、その名残を今も持っている白人がいたとしたらそれは恥ずべき事だろう。服装や言葉使いは女性でも声が男性で不精をしたら髭も生えてそうな人が女子トイレに入って来るのを不快に感じるのは恥ずべき事なのだろうか。
人種差別とLGBTの問題はどこか違うような気がする。どこが違うのだろうか。それとも違うと思う私が間違っているのだろうか。どうしても答えが見つからない。

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