2020年9月29日火曜日

検察改革

 周防正行監督は日本の司法制度に強い関心をお持ちで「それでもボクはやってない」「終の信託」などの作品を世に問うている。

被疑者として検察に睨まれたら最後、推定無罪の原則などクソ食らえで人権を無視され、否認を続ける限り留置場から出して貰えず、裁判になれば警察や検察を敵に回したくない裁判官の思惑で99.9%の確率で有罪になるという、全てが現実ではないと信じたいが、そんな姿を見せられると、日本からの脱出を図ったカルロス・ゴーンの気持ちに納得してしまう。

そんな検察の強引な捜査が頂点に達したのが村木厚子さんの事件だった。九月二十一日は大阪地検による証拠改竄事件が発覚して丁度十年の節目だったとの事で新聞に色んな記事が出た。

その中で一番驚いたのは村木さんが複数の元検事総長から「ありがとう」と声を掛けられたという話だ。同じ事はNHKの特別番組でも村木さんが手柄の一つとして誇らしげに語っていた。「巨悪に立ち向かう重圧で無理な捜査をしている自覚があったが、内部からは正せなかった」と言うのだ。検察にとって村木さんは黒船だったと。検察内部でもその捜査方法に問題があると知りながらそのトップが改善に動き出さなかった。末端の下級の検察官が言うのではない、トップの検事総長がその不作為を自覚していたというのだ。その陰で何人もいや何十人何百人もの人が「それでもボクはやってない」と涙を飲んだのかも知れないのに。不作為の罪は賭け麻雀より遥かに大きい。

日本の司法制度に関する問題点は佐野真一著「東電OL症候群」でも語られている。適正な司法制度や検察改革に向けての世論醸成のためにも冒頭の二作品は必見のものと思う。「終の信託」には草刈民代のヌードという余禄もある。

2020年9月22日火曜日

新総理

 東京新聞に望月衣塑子という記者がいる。菅義偉官房長官には随分嫌われたらしい。彼女をモデルにした映画「新聞記者」では主役の女優が日本国内では見つからず韓国のシム・ウンギョンが務めた。彼女の活動を記録したドキュメンタリー「i新聞記者ドキュメント」には彼女と菅官房長官との間で実際に行われた質疑応答の様子が収録されているが、意固地になる官房長官の狭量を感じてしまった。尤も、記者の方に都合の良い場面を切り取って編集されているのだろうから割引いて考える必要はあろうが。

その菅氏が新総理に就任した。早々の会見を見て期待を大きくした。曰く「悪しき前例主義、既得権益、縦割り行政を打破して規制改革を断行する」そして「国民のために働く内閣にする」と。特に寡占状態にある大手数社が利益を貪っている携帯電話の料金を競争原理の導入で引き下げる、には大いに期待したい。しかし同時に思った。日本で高いのは携帯電話だけに限らない。アメリカで一年半暮らした生活実感からすると、電力料金も高い、水道料金も高い、ビールも高い、ガソリンも高い、自動車の車検費用も高い(ガスチェックとの比較)、そして高速道路料金は滅茶苦茶高い。要するに公共料金や税に関する部分が極めて高い。考えて見れば政府、行政サービスこそ独占企業の最たるものではないか。

確かに選挙という競争はある。が、一番の基本は如何に安価に良質な行政サービスを提供するかを競う事だろう。行政サービスが上がったから増税する、ではあまりに芸がない。消費増税は十年間は行わないそうだが、むしろ知恵と創意工夫を総動員して、携帯料金を引き下げるのと同じように、減税するくらいの勢いで本当に国民のための内閣を作って欲しいものだ。

2020年9月15日火曜日

線審

 全米オープンテニス大会、優勝候補筆頭のジョコビッチ選手が失格処分となってしまった。ゲームの変わり目に不用意に後ろに打ったボールが運悪く線審の喉元を直撃してしまったからだ。線審が気づいていれば十分避けられたし、当たった場所が胸や腹なら何て事もない球だった。しかし「故意か過失かにかかわらず、コート内で危険なボールを打つ行為」がルール違反だとしての処分だった。

問題はあれが「危険なボール」だったかどうかだ。速度など客観的な基準が定められている訳ではないから主審の判断に委ねられるのだろう。香港で警察官に向かってクラクションを鳴らしたバスの運転手が国家安全維持法違反の咎で逮捕されたというニュースを思い出した。

そもそもテニスの線審とはどういう人達なのか。主審は異なる大会で何度も同じ人を見ているから恐らく職業として成立していると思うが、線審で同じ人を見る事は殆どないからその時々のボランティアのような形で運営されているのではないか。しかしどんなバックグラウンドを持った人達なのだろうかと疑問に思うのは、およそ運動とは無縁と思われるような体型をした人が沢山いるからだ。視力が良くて、テニスはプレーするより見るのが好き、という人達を想像する。何よりテニスを深く愛する人達だと信じたい。

ならばあの被害を受けた線審には「私は大丈夫。大した事はないからどうか事を荒立てないで欲しい」との申告をして欲しかった。今大会はナダルもフェデラーも欠場し、その上ジョコビッチまでもいなくなってしまったら横綱大関が全員休場してしまったようでなんとも淋しい。テニスを愛するならば、テニスファンを愛するならば、一人のちょっとした不注意で大会の価値が減じる事態を避ける努力をして欲しかった。

2020年9月8日火曜日

食品ロス

 

幼心に両親がいつも食べ物を粗末にするなと言っていたのを思い出す。父は「どの米一粒も農家の人が一年丹精込めて作ったものだ」と言って茶碗にご飯粒が残っているのを許さなかったし、「ソウケモンを粗末にするのは馬鹿モンだ」が口癖の母は、カボチャの煮物を丁度煮汁が残るか残らないかギリギリの状態に仕上げるのが得意だった。馬鹿と思われたくなくて、豆腐やたまに出て来る刺身を食べる時、醤油が大量に残らないよう用心したものだ。

そんな風にして育ったから、時々テレビで食パンが丸ごと廃棄されたり、おにぎりが包装されたままゴミ箱に入れられたりするのを見ると悲しくてならない。先日のテレビ番組によると日本での食品ロスは年間643万トンに上るそうだ。あまりにも大きな数字でピンと来ないが、人口を約一億人とすると一人当たり約60㎏、毎年一人が10㎏入りの米袋6個を捨てている事になる。昔の人なら米一俵と言った方が分かり易いか。しかもその処理費が二兆円だとか。もし食品ロスを完全になくせば、毎年米一俵と二万円を支給して貰える計算になる。四人家族ならその四倍だ。

しかもこの数字は食べ残しや一旦製品になった後廃棄されたものだけが計上されているのではないか。番組ではどの範囲のものまでを含むのか厳密な定義は示されなかったが、例えばスーパーの野菜売り場でキャベツやレタスの一番外側の葉を客がむしって捨てたものまでは含まないと思う。ああやって無造作に捨てられた葉っぱを、もし先の大戦でガダルカナルやインパールで飢えに苦しんだ兵隊さん達が見たらどう思うだろう。彼等の無念を思うと申し訳なくてどうしても葉っぱの一枚も捨てる気になれない。帰って綺麗に洗って煮たり炒めたりすれば十分美味しく頂けるのだから。

2020年9月1日火曜日

戦争

 毎年八月十五日が近づくと戦争に関する映画やドキュメンタリーが放映される。戦争が如何に悲惨であるかを強調し、二度とあのような悲劇を繰り返さないようにという願いを込めて。しかし本当に再発を防ぐためには戦争が始まった当初多くの人が興奮、熱狂した事実を直視・反省し、偏狭なナショナリズムを諫める事の方がより重要ではないか。

兎に角当時の事を可能な限り客観的に見た事実に忠実な記録が見たい。「ドイツにヒトラーがいたとき」もそんな気持ちで読んだ。印象に残った箇所を一つだけご紹介する。筆者は戦後の東西ドイツの実態にも詳しい。「東ドイツの主導者たちは民衆を信頼する事が出来ないため、有刺鉄線を張り巡らした砦のような官邸に住み、外出するときには防弾ガラスで固めたリムジンに乗ってフルスピードで民衆の前を通り抜けたが、国民大衆の信頼と支持とを確信していたヒトラーはオープンカーで平気で民衆の中へ入って行った。」と書き、そして当時のドイツ人から「日本では天皇と国民の関係は父と子であると言われるのにどうして天皇が国民の中へ入っていくときあんな厳重な警備をしなければならないのか。」と問い詰められたと書く。ヒトラーは貧しい人々に寄り添い、国民から愛されていたのだ。

19391127日のニューヨークタイムズにはプリンストン大学恒例の、存命中で最も偉大な人物を問う人気投票の結果が掲載され、二位アインシュタイン、三位チェンバレンを抑え一位はヒトラーだった。(「『ニューヨークタイムズ』が見た第二次世界大戦」による)

そんなヒトラーがあんな悲惨な事態を招いた事実から眼を背けてはならない。戦争を始めたのは当時のリーダーが悪者だったから、で済ましては次の悲劇を防げない。