2020年11月3日火曜日

老いと死

 今年のカレンダーも残り二枚になった。旅行に出るわけでもなく、美術館や博物館へ行くわけでもなく、盛り場で会食するわけでもなく、一年が終わろうとしている。本を読んで映画を見てお酒を飲んで、まるで仙人の生活みたいな毎日だ。仙人なら生老病死の悩みからも解放されているのだろうが・・・

「老いて死ぬ」ことは生物が望んでいることなのだ、と言われるとちょっと驚く。「生き物の死にざま」稲垣栄洋著の一節だ。地球上に最初に生命が誕生したのは38億年前、その単細胞生物は単純に細胞分裂で個体を増やし、死ぬことはなかった。岩石に押しつぶされたりして物理的に破壊される事はあろうが、いわば畳の上で天寿を全うするような意味での死はなかった。しかし進化の過程で生物は死ぬことを選んだ。「死」は生物自身が創り出した偉大な発明なのである、と著者は言う。

利己的遺伝子仮説という説がある。すべての生物は遺伝子の乗り物に過ぎず、遺伝子を増やすために「個体」という生物は利用されている。遺伝子が生き延びるためには個体は死んだ方が良いのである。「死」は遺伝子が古くなった個体を乗り替えてスクラップにしている事に他ならない。

餓死を覚悟で卵を温め続け、卵が孵る頃には餓死した自らの体を子供の餌として提供する虫もいるそうだ。これなど、遺伝子がそうしろと命令しているとしか思えないではないか。

植物に眼を転じると、雑草が最も進化した植物だそうだ。大木が進化して雑草になった。大木は何百年も生きる。しかしそれは遺伝子を残すためには適していない。毎年枯れて生まれ変わり、環境に適応できるよう敢えて短い命を選択したのだ。

老いと死が生物が望んだ事だとしたら、いくらか生老病死の悩みからも解放されるだろうか。

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