2021年3月30日火曜日

既成概念

 

前回は人種差別が既成概念の弊害の一つに過ぎないと書いたが、渡辺直美さんを豚に例えた話も同様に見える。

一部報道ではあれが女性蔑視だとされたが、渡辺さんに対して失礼な話ではあっても、どう考えても女性を蔑視したものには思えなかった。どうやらあの記事の本体部分は佐々木氏が演出チーム内の女性メンバーを不当に扱った事を告発する事にあって、渡辺さんの件はついでに出た話に過ぎないようだ。当事者の知名度も手伝ってか、渡辺さんの話の方が大きくなってしまったというのが実情らしい。週刊文春の本文を読んだわけではないが、それが本当ならどうして内輪の半分冗談のような話が一年も経った頃に暴露され問題視されたのかの疑問にも納得がいく。

それはさておき、渡辺さんが所属事務所を通じて出したコメントは「見た目を揶揄されることも重々理解した上で仕事をしている」「私自身はこの体形で幸せ」など実に大人の対応だった。ところで、もし三船敏郎をライオンに例えた演出だったらどうか。それを三船氏に対する蔑視だと言うだろうか。要するにライオンなら良くて豚なら駄目なのか。そこが既成概念の弊害だと思うのである。豚に例える事が即蔑視につながるのは豚に対してあまりにも失礼ではないか。少なくとも人間に対する有用性からすれば、動物園で見世物になるしか能のないライオンより豚の方が余程優れているのに。

男女平等に関しても全ての既成概念を取り払うべきだと思う。カリフォルニアでは新しく法律が出来て男女用のオモチャを別々に陳列すると千ドルの罰金が課されるらしい。女(男)の子が男(女)用のオモチャも買い易いようにという配慮らしいが、男女平等が当り前だという事を前提にするなら、わざわざそんな事をする必要もないと思うのだが。

2021年3月25日木曜日

同じ桃の木なのに?

 同じ日の同じ桃の木なのに、こちらの枝はほぼ満開、こちらの枝はまだ蕾。

何がどう違うのだろう・・・日当たりも下の土も同じはずだがなあ・・・・



2021年3月23日火曜日

人種差別

 

昔々ある所に黒人の王国がありました。そこに白人のお姫様が王子様のお后としてやって来ました。二人は仲睦まじく暮らし、やがてお后のお腹に新しい命が宿りました。王様の一家は生まれて来る子の肌がどんなだろうと噂しあいました。

架空の話だが、もし右記のような事があったら王家の人々は人種差別主義者だとして糾弾されるだろうか。イギリス王室のメーガン妃に対する対応が人種差別的だと批難されるのは、背景に白人が優れていて黒人が劣っているという既成概念があるからだ。白人と黒人と肌の色に違いはあれ、その優劣に差はないという前提なら、生まれて来る子の肌の色を想像する事のどこが悪いのか。例えばノミの夫婦がいて、背の低い夫と背の高い妻の間に生まれる子の背の高さを想像してあれこれ噂するのと同じ事だ。メーガン妃もそのルーツに黒人の血が交っている事を引け目に思う必要は全くない。回りの人が色々噂しても「その子に対する私の愛が肌の色に影響される事は全くありません。回りの人達も同様だと信じています。」と言っていれば良かった。

白人の優位性はたまたま彼らが他の民族に先駆けて大航海を行い、その武力によって世界に覇権を打ち立てたから生じたものだ。しかし実際には大航海はコロンブスより先に鄭和が行っている。鄭和はコロンブスのように飢えてもいなかったし、好戦的でもなく、支配欲もなかったから他民族を奴隷化するような事はしなかった。インカ帝国を滅ぼしたピサロのような野蛮な人間がいた事はむしろ白人が劣った人種である事を示しているのではないか。

白人と黒人が平等であるのは本来当り前の事だ。白人が上から目線で「黒人も平等に扱いましょう」などと慈悲をかける筋合いのものではない、と思うのである。

2021年3月19日金曜日

 麦がすっかり育って、畝が見えなくなりました。麦の隙間にひっそり咲いてる花は何だろう?

我が家の桃も今日が開化かな?





2021年3月16日火曜日

調査能力

 週刊文春の新しい号が出る度に国会があたふたする。その情報収集能力は敬服に値するが、他の組織(競争相手である他の週刊誌や本来そういう事を取り締まるべき公的組織など)はそれをどう思っているのだろう。

かつて森友学園や加計学園が世間を騒がせていた頃、文部省の元事務次官が怪しげな店に出入りしていた事が読売新聞の社会欄で報じられた事があった。もしあれが読売新聞の独自の調査網に引っかかった情報なら、入手時に即記事にする事も出来たはずで、あの時期に公表されたのは明らかに別の意図を持つ組織からのタレコミがあったものと推察される。当該元事務次官もあの記事が出るずっと前にその行動を注意されていたと言っているから、役所の要人ともなると常にその行動を対象にした監視網が張り巡らされていると思った方が良さそうだ。

週刊文春より強力と思われるその監視網が今回は働かなかったのか。ちゃんと働いて情報は入手していても、それを切り札として使うかどうかは札を持っている側の裁量によるのだから、要するに政権運営に有利なように使われるだけだ、という事か。

しかしまあ、人の行動を監視する社会主義国家のような組織はあっても非公式なものだろうから、その調査能力を問題視する積りはないが、事業が法律に則ったものかどうかを審理する際の調査能力はしっかりして貰わないと困る。衛星放送事業に対する外資規制を定めた放送法の保護法益がどのようなものなのか詳しい事は知らないが、今回の事で国益が損なわれる事がなかったのか気に掛かる。全ての申請が嘘である可能性の元で業務をするのは大変で、何らかのチェックシステムがあるはずだと思うが、もし今回の見逃しが関係者の職務怠慢によるものなら厳格な処分を願うものである。

2021年3月14日日曜日

 春です。

河原には菜の花が、民家の庭にはコブシが満開。

麦も順調に育ってます。




2021年3月9日火曜日

オソレ

 命を懸けた大事な裁判の席で頭を平手打ちされるといういたずらを受けても平然と苦笑いの出来る人と、平時のぶら下がり取材で記者からの挑発的な質問に態度を硬化させ言葉を荒らげる人、人間の度量の違いと言ってしまうと映画「i新聞記者ドキュメント」を見た時の危惧(681回「新総理」参照)が当たってしまう事になるが、二人が感じるオソレ(恐れか畏れかは別にして)に根本原因があるのではないかと思った。

昨今の政治家や官僚達の国会答弁にそれが言える。よくもまああんなに見え透いた嘘や醜い言い訳が出来るものだ。もし戦前の青年将校たちがあんな答弁を見たらどう思うか。下手をしたら天誅を加える、なんて事もあり得るのではないだろうか。勿論暴力には絶対反対だが、何かに対するオソレがないからあんな醜態をさらけ出す事になる。

五一五事件や二二六事件を経験した戦前の政治家にとっては暴力に対する恐れが彼等の言動をある程度律していたのではないか。現代の政治家がそうした恐れから解放されたのは良い事として、他の何か、例えば検察による立件とか有権者の監視などが有効に働く必要があると思う。しかし現実には検察はともかく、有権者は地元への利益誘導が主要な関心であって、少々みっともない対応があっても選挙に影響しないから、嘘や言い訳や失言が絶えないのだろう。

政治家を志す動機のかなりの部分は歴史に名を残したいという思いがあるだろう。実際彼等の言動は多くのカメラに収まり後の人々の眼に晒されることになる。その時、嘘や言い訳で失笑を買うような自分の姿が映しだされる事を何とも思わないのだろうか。歴史の眼に対する畏れを政治家には忘れないで貰いたい。まさか歴史に汚名を残したいなどとは思わない筈だから。

2021年3月2日火曜日

映画「東京裁判」

 1983年の製作と言うから、今更の感無きにしも非ずだが「東京裁判」という映画を先日見た。映画と言っても俳優は一人も出ない。東京裁判の実写映像を中心に、ガンジーが先導するインドの独立への運動や、フランスから独立しようとするベトナムの様子など、当時の記録映像を交えたドキュメンタリーだ。5時間近い大作だが見終わるまであっと言う間だった。日本人なら一度は見るべき作品だと思いここにご紹介する次第である。

第二次大戦の時の日本軍の幹部と言えば、日清日露の戦争を戦った時と比べて能力も真摯さも劣るようで毛嫌いしていたが、少し見直さなければいけないと思った。特に東條英機に対して。後ろに座る大川周明がペタッとその禿げ頭を平手打ちする有名なシーンもちゃんと写っていて、その時の東條の反応は怒る訳でもなくにこやかに笑っていた。それより何より彼の真価を感じたのはキーナン検事による証人尋問の時だ。尋問に先立ってキーナン検事は「私はあなたを大将とは呼ばない。何故ならもう日本陸軍は存在しないのだから」と言って、彼を呼ぶときは「トージョー」と呼び捨てにした。しかし尋問が進むうち、いつしかそれが「ミスター・トージョー」に変わっていった。東條の態度に感化された結果なのだろう。「戦争開始の責任を取りますか」との質問にも「当然です」と毅然と答えている。

考えてみれば戦争を始めるなどと言うのは生半可な覚悟で出来るものではない。昨今国会でその場逃れのいい加減な答弁を繰り返す政治家達にそのような覚悟が備わっていると思えない。戦争を始める覚悟がない、というのは喜ばしい事かも知れないが、他国が始めた他国の大義名分のための戦争に巻き込まれない程度の覚悟だけは持っていて欲しいものだ。