命を懸けた大事な裁判の席で頭を平手打ちされるといういたずらを受けても平然と苦笑いの出来る人と、平時のぶら下がり取材で記者からの挑発的な質問に態度を硬化させ言葉を荒らげる人、人間の度量の違いと言ってしまうと映画「i新聞記者ドキュメント」を見た時の危惧(681回「新総理」参照)が当たってしまう事になるが、二人が感じるオソレ(恐れか畏れかは別にして)に根本原因があるのではないかと思った。
昨今の政治家や官僚達の国会答弁にそれが言える。よくもまああんなに見え透いた嘘や醜い言い訳が出来るものだ。もし戦前の青年将校たちがあんな答弁を見たらどう思うか。下手をしたら天誅を加える、なんて事もあり得るのではないだろうか。勿論暴力には絶対反対だが、何かに対するオソレがないからあんな醜態をさらけ出す事になる。
五一五事件や二二六事件を経験した戦前の政治家にとっては暴力に対する恐れが彼等の言動をある程度律していたのではないか。現代の政治家がそうした恐れから解放されたのは良い事として、他の何か、例えば検察による立件とか有権者の監視などが有効に働く必要があると思う。しかし現実には検察はともかく、有権者は地元への利益誘導が主要な関心であって、少々みっともない対応があっても選挙に影響しないから、嘘や言い訳や失言が絶えないのだろう。
0 件のコメント:
コメントを投稿