2021年7月31日土曜日

麦畑のそれからのそれから

 草はますます生い茂っている。

その中、不思議な事に気が付いた。セイタカアワダチソウの立ち位置だ。

群生することなく、一定の間隔をあけて散在している。まるで誰かが間隔をあけて植えたかのように。

この地に麦が植わっていた時には流石にセイタカアワダチソウは生きていなかっただろうから、麦に刈り取りが終わってからどこからか種が飛んできて、ここに生育したものと思う。

その際、種がこんなに都合よく間隔をあけて着地するものだろうか?

今後セイタカアワダチソウがどのようにのさばっていくのか、見ものだ。


2021年7月27日火曜日

同じ穴の貉

 

「辞任・解任相次ぐ」と一括りで報道されるが、辞任と解任は言ってみれば切腹と打ち首ほどの違いがある。切腹を許された者と、発覚して即打ち首になった者との違いにどうも納得がいかない。どちらがよりあくどいかを比較すれば逆の対応になってもおかしくなかった。

「もう時間がないから」と、切腹どころか無罪放免になりそうだった人の所業は聞くもおぞましきものだった。マスメディアに出ているのは「過去のいじめ問題」とか「障碍を持つ方々に対する心ない発言や行為」などの表現しかないが、その具体的内容を見るとあまりにも悪質かつ陰湿で、流石にそのまま載せるのをためらったのも頷ける。ネットには海外のメディアも含めて各社がどこまで中身を伝えたかを比較するサイトまであった。

目や耳を覆いたくなるようなあまりのひどさに、意図的な誇張があるのではないかと疑った。ある時期、ワルである事を恰好良いと勘違いする事もあるからだ。尾崎豊は「行儀よくまじめなんて出来やしなかった。夜の校舎、窓ガラス壊してまわった。逆らい続けあがき続けた。」とワルを歌って若者に支持された。

しかし、小山田氏の所業と尾崎豊の歌には根本的な違いがある。尾崎の歌は自分より強い者に対する反抗であるのに対し、小山田氏の所業は自分を安全地帯に置いたまま、自分より弱い立場の人間を愚弄しいじめて楽しんでいるのである。

その違いに思い至った時、辞任と解任の対応の違いにもある種の納得がいった。侮辱した相手が女性や障碍者など比較的弱い立場の人である場合は辞任で許されるが、ユダヤ人団体のように強い相手だと恐れをなしひれ伏して問答無用の打ち首にされてしまう。なんの事はない、雇う側も雇われる側も処分する側もされる側も結局は同じ穴の貉だったのだ。

2021年7月20日火曜日

チャイニーズ

 

「日は西に傾く」

陳舜臣「中国の歴史」第六巻の清朝末期を語る章のタイトルである。その一つ前の章は「三世の春」。康熙・雍正・乾隆の三帝が治めた頃、中国は間違いなく世界一の国だった。「天朝は物産豊盈、有らざる所なく」とイギリスから来た使節の通商の申し込みを断っている。しかし、乾隆帝の治世が終わった頃から輝きを失い、アヘン戦争などを通して中国は世界一の座を降りていく。

中国は長い間東アジアをリードして来た。人民解放軍と言う名の軍隊が人民に銃口を向けるような今の中国は論外だが、権力に屈しない気骨のある格好良い人も多く輩出し、私は一応の敬意を持っている。同じアジア人として西洋の鼻を明かしたいという思いもある。それにしてもIOCバッハ会長の「最も大切なチャイニーズピープル・・・」は頂けない。

中国の偉大さ故か、西洋人がアジア全体を中国と一体視してしまうという話はよく聞く。我々がアフリカの各国を個別に認識できないように。それでもこれから自分が行こうという国については事前に勉強もするだろう。そしてバッハ氏はジャパニーズと言うべきところをチャイニーズと言ってしまった。

バッハ氏の頭の中はお金とスポンサー探しで一杯なのだろう。確かに先日行われたサッカーの欧州選手権を見ると、ティックトック、ハイセンス、アリペイなど中国企業の宣伝広告が目立ち、日本企業は全くなかった。サッカーの大会と言えばかつてはトヨタやキャノンなどが常連だったというのに。

五輪もいつかは中国がメインのスポンサーになるだろう。そうすると競技時間も中国のゴールデンタイムに合わせて行われるのだろうか。ならばそれは中国と時差の殆どない日本人にとっては誠に喜ばしい事ではないか。

日はまた東から昇るのか。

2021年7月18日日曜日

麦畑のそれから

しばらく見なかったら麦畑は沢山の草が生い茂っていた。

何種類の草があるのか、残念ながら私には分からないが、これだけの草が自生する場所を探して虎視眈々としていたのだ。そして人間がちょっとスキを見せた瞬間に「ここは俺の場所だ」と主張し始める。

なんと強い生命力か。

人間が「地球にやさしく」なんて言っている場合じゃない。自然は人間が考える以上にたくましい。


2021年7月13日火曜日

責任+α

 

ビートルズが来日した時の警備体制についてのドキュメント番組がNHKであった。滞在期間中ファンを含めた関係者に事故や怪我のないよう時には敢えて過剰とも思える要求をする統括指揮官の姿があった。彼は責任を一身に背負い「自分がやらなければ誰がやる」の気概で事に臨んだのだった。

今度の五輪でそのような気概を持っている人がいるのだろうか。ある人は「それは都の役割です」と言い、ある人は「それは組織委員会が考えている筈です」と言う。強いて最高責任者はと問えば総理大臣という事になろうが、その人も「主催者は私ではありません」と言っている。

感染防止についての地方自治体向け指針にしろ、空港検疫での対応にしろ、当り前の事が検討されていなかったのは、能力の問題というより責任感の問題で、「誰かがやっているだろう」と誰も自分の問題として捉えていなかったからだと推察する。

五輪のような大きなイベントでは誰かが一人で全責任を負い全般に目配りをするなんて出来ないかも知れない。それだからこそ自分の守備範囲外の事についても気の付いた事は互いに注意し合えるチームワークが必要なのだ。

以下は菅首相が記者会見で見せる眼差しからの類推。重たそうな上瞼の下から黒目が半分顔を覗かせ、鈍く光りながら座った目つきでこちらを睨む。権力者にあの眼で個別に睨まれたら生きた心地がしないだろう。小さな失敗をした時「お前は自分の仕事だけしてりゃいいんだ!」と怒鳴られでもしたら、出しゃばったマネをしようと思う人はいなくなる。皆が少しづつ出しゃばって補い合わないとこんな大きなイベントをこなす事は出来ないだろうと思うのに。

五輪は世界の人が心を一つにするのだそうだ。プロジェクトチームは心が一つになっているのだろうか。

2021年7月6日火曜日

為体

残り一か月を切ったと言うのにこの体たらくで本当に大丈夫なのだろうか。五輪海外選手の合宿先となる自治体向けの指針を改定するという。この差し迫った時期に。しかもその改訂内容が「感染者が判明した場合、一緒に合宿するコーチや他の選手ら全員をいったん隔離して練習の停止を求める」と言うのだ。えっ?!今まではそう決められていなかったの?今までは感染者が出た場合の対応はどう定められていたのだろうか。感染者が出ようが出まいが関係なく平気で練習を続けて良かったのだろうか。それが「安心・安全な」大会の中身だったのか。

ウガンダ選手団から感染者が出たケースについても「空港検疫で陽性者が見つかった時、他の選手への対応をどうするかを検討していなかった」とか。一体どうなっているのだろう。そんな事は想定外の特異事例でも何でもなく、十分予測出来た筈だ。高校生でも何かイベントを企画する際には万全を期してそれ位の注意は払うだろう。

政府の体たらくが心配でならない。

この体たらくだからIOCにも舐められているのではないか。感染の再拡大を前に無観客にするかどうか五者協議にかけるというが、そもそも観客数に制限を加えるかどうかは日本で独自に決めて良い事柄ではないのか。何故その事につきIOCにお伺いを立てなければならないのか。国内の安全を守る事について他者の干渉を受けるのならもはや独立国家とは言えない。

正当な国益を主張する事も認めさせる事も出来ず、安心・安全について精神論的な空念仏を繰り返すだけで具体策を講じる事も出来ないでいると、この大会はコロナに打ち勝った証になるどころか、時の政府の無能さの証となってしまう。

因みに表題の言葉だが、広辞苑は「ていたらく」にこの字を当てている