「辞任・解任相次ぐ」と一括りで報道されるが、辞任と解任は言ってみれば切腹と打ち首ほどの違いがある。切腹を許された者と、発覚して即打ち首になった者との違いにどうも納得がいかない。どちらがよりあくどいかを比較すれば逆の対応になってもおかしくなかった。
「もう時間がないから」と、切腹どころか無罪放免になりそうだった人の所業は聞くもおぞましきものだった。マスメディアに出ているのは「過去のいじめ問題」とか「障碍を持つ方々に対する心ない発言や行為」などの表現しかないが、その具体的内容を見るとあまりにも悪質かつ陰湿で、流石にそのまま載せるのをためらったのも頷ける。ネットには海外のメディアも含めて各社がどこまで中身を伝えたかを比較するサイトまであった。
目や耳を覆いたくなるようなあまりのひどさに、意図的な誇張があるのではないかと疑った。ある時期、ワルである事を恰好良いと勘違いする事もあるからだ。尾崎豊は「行儀よくまじめなんて出来やしなかった。夜の校舎、窓ガラス壊してまわった。逆らい続けあがき続けた。」とワルを歌って若者に支持された。
しかし、小山田氏の所業と尾崎豊の歌には根本的な違いがある。尾崎の歌は自分より強い者に対する反抗であるのに対し、小山田氏の所業は自分を安全地帯に置いたまま、自分より弱い立場の人間を愚弄しいじめて楽しんでいるのである。
その違いに思い至った時、辞任と解任の対応の違いにもある種の納得がいった。侮辱した相手が女性や障碍者など比較的弱い立場の人である場合は辞任で許されるが、ユダヤ人団体のように強い相手だと恐れをなしひれ伏して問答無用の打ち首にされてしまう。なんの事はない、雇う側も雇われる側も処分する側もされる側も結局は同じ穴の貉だったのだ。
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