2021年9月28日火曜日

騙す

 今場所はコロナの関係でその姿を見る事が出来ないが、横綱白鵬の勝ち方が汚いと話題になった事があった。そもそも勝ち方に綺麗とか汚いとかがあるのだろうか。あるとすればどう定義されるのだろうか。

確かに相撲には何となくだが相撲道に悖る汚い勝ち方がありそうだ。横綱のくせに立ち合いに張り手やかち上げをしたり横に飛んだりする場合だ。それは品位に欠けるとも言われる。だがテニスに汚い勝ち方があるのだろうかと考えてどうしてもそれが思い浮かばない。テニスが品位を重んじない訳では決してないが、テニスにおける勝ち方には綺麗も汚いもないような気がする。

汚い勝ち方があるとすれば品位の他に相手を騙す場合が考えられる。古事記に載っているヤマトタケルがイズモタケルを成敗する時の勝ち方はその典型だ。まず、親友の誓いを交わして、イズモタケルの警戒を解き、斐伊川で一緒に水浴びをした後、自分の偽の木刀と交換して真剣勝負を挑み、切り殺してしまう、という何とも汚いやり方だ。

古事記はこれを知略に富んだ勝ち方と称賛するが、相手の善意を逆手に取って騙す事は知略以前の問題だと思う。しかし「騙す」が許される場合もある。スポーツにおけるフェイント攻撃がそうだ。強打すると見せかけてポトリと相手コートに球を落とす。バレーボールやテニスにおける陽動作戦はまさに相手を騙して効果を発揮するのだが、それが汚い勝ち方とは思わない。

「騙す」にも許される限度がありそうだが、その境界線がどこにあるのか良く分からない。ある友人は「スサノオだって、ヤマタノオロチを騙して泥酔させて殺したじゃないか」と言った。スサノオのやり方が汚いとは決して思わない。「騙す」の許容範囲、今後の研究課題である。

2021年9月27日月曜日

動物と花

 農家の庭先に変な鳥がいた。形は鷺。色が白ければ白鷺なのだが、保護色なのか、周りの色に溶け込んだ土地色をしている。

その脇でコスモスが鮮やかに咲いている。

鳥は自分の姿を隠すように保護色になり、花は自分の存在を皆に発見して貰いたくて仕方ないように誇示している。

人間にもいるよね。ひっそりしていたい人と目立ちたがり屋の人。動物派と植物派かな。こういうと動物派の方が目立ちたがりに思えるけど・・・・



2021年9月24日金曜日

変な空

 9月24日(金)空を見上げてこんな空初めてだった。

テニスコートの真上で空が真っ二つ。


北半分は雲が空全体を覆っている。

ところが南半分は雲一つない青空

青空にところどころ雲が浮かんでいる空や、全天雲だけというのなら良く見て来たけど、こんな空は初めてでした。



2021年9月21日火曜日

餞暑

 歳時記には「残暑」の同義語として「餞暑」という言葉が載っている。寝苦しい夜にお別れ出来て一息ついている身には暑さに「餞(はなむけ)」を送る気にはなれないが、昔は暑さが今ほど過酷ではなく、花火や夕涼みなど暑さを楽しむ知恵と余裕のあった人々は夏との別れを惜しむ気持ちもあったのだろう。

近所の家の庭に咲いている百日紅はきっと「餞暑」を実感しているに違いない。五月の連休頃咲き始め、その名の通り長い間楽しませてくれたが、九月の中旬を過ぎて流石に少し勢いがなくなってきたようだ。その鮮やかな赤は夏の青い空に良く似合う。共演しているのか、競い合っているのか、良く晴れ渡った全天の青と強い桃色のその対比は生命の力強さを象徴しているかのようである。

そして、

テニスで汗を流して心地良い疲労感の中で家まで歩いて帰る途中、まるで空から天女の衣が舞い降りたかのようなかぐわしい香りに身が包まれた。金木犀だ。道端には小さな黄色い花が沢山咲いている。今年もそんな季節になったのだ。

金木犀の香りをかぐと母の実家の庭を思い出す。母は貧しい農家で双子の妹として生まれた。農作業の片手間にする子育てで二人の面倒を見る余裕はない、祖母は姉に掛かり切りになり、母は曾祖母に育てられた。可愛がって育てた孫が生んだ初めての子だというので私は曾祖母に溺愛されたらしい。らしい、というのは幼い頃の事で記憶がはっきりしないからだが、それでも遊びに行くたびに着物の袖の中から飴玉を出してくれたのは鮮明に覚えている。私のためにとっておいたその飴玉はいつも糸くずだらけになっていた。その曾祖母は私が小学三年生の時九十二歳で他界した。

もし愛情に匂いがあるとするならば、それはきっと金木犀の匂いだろうと思っている。

2021年9月14日火曜日

柔道とガッツポーズ

 嘉納治五郎は柔道の国際化を目指し、柔道がオリンピックの種目となる事に尽力した。彼の夢は前の東京五輪で実現し、しかも無差別級の金メダリストが外国人だった事が国際化が成就した事の象徴であるように言われた。しかし国際化は柔道の変容を伴う。

ヘーシンクの所作はまさに日本の柔道そのものだった。講道館で柔道を習った彼は技術だけでなく、柔道の精神をも学び取ったようだ。試合が始まると、いざ勝負、とでも言うように堂々と両手を上げて相対している。しかし昨今は、腰を引いて身をかがめ、相手を睨みつけるようにしてスキを伺い、両手をせわしく出したり引いたりする。この様変わりを嘉納治五郎が見たらどう思うだろうか。

勝利の後のガッツポーズも当時はなかった。ヘーシンクが取った行動は自国の関係者が喜びのあまり畳の上に入ろうとするのを制する事だった。おそらくボクシングでノックアウトの後セコンドがリング内に入るのと同じ感覚で畳に上がろうとしたのだろう。柔道をボクシングと一緒にしてはいけない。ボクシングは相手を殴り倒す事を目的としている。仮に相手がこちらに敵意を持っていなくても。しかし柔道は違う。

ユーチューブで講道館柔道に関する情報を検索したら講道館柔道十段、三船久蔵の「球の原理」というのが見つかった。球は絶対に倒れない、球の極意を体得する事により襲ってくる敵から身を護るのが柔道だというのだ。柔道は敵意のない相手をやっつける事は考えていない。だからお互いに敵意がないと「指導」などと言うペナルティが必要になってくる。

柔道は国際化してジュードーになった。阿部詩選手のガッツポーズに違和感がなくなったのも国際化の結果の一つだろう。お兄ちゃんは畳の上ではガッツポーズをしなかったが。

2021年9月12日日曜日

金木犀

 テニスが終わってコートから家まで歩いて帰る。

心地良く疲れた体に天から衣が降りたかのような香りがまとわりついた。

金木犀の咲く季節になったのだ。

僕は幼少の頃、曾祖母に溺愛された。

母の実家は田舎の農家。母は双子の妹として生まれた。女手も重要な労働力だった農家で、双子を育てるのは容易ではない。祖母(つまり母の母)は上の子を育てるのに精一杯で母を見る余裕はない。必然、母は曾祖母(つまり母の祖母)に育てられた。

大事に育てた孫が生んだ初めての子だとして、僕は曾祖母に溺愛されたのだ。

小学校も低学年の頃、母の実家に遊びに行くと、曾祖母はいつも着物の袂の中から糸くずだらけの飴玉を出して僕にくれた。

甘いものが貴重な時代だった。飴玉は包装紙に包まれることなく裸で売買されていた。曾祖母はそれを僕が来た時の為に大事に取っておいたのだった。

もし愛情に匂いがあるとするなら、それはきっと金木犀の匂いに違いないと思う。


曾祖母の飴思い出す金木犀

2021年9月11日土曜日

百日紅

 五月の連休辺りから咲き始め、その名の通り長い間咲き続ける。

その鮮やかな赤味は夏の青い空と良く似合う。共演しているのか、競い合っているのか。

いずれにしろ、その対比は生命の力強さを象徴しているかのようである。

今日の空は残念ながら「雲一つない」という訳にはいかなかった。


全天の青と競うか百日紅


2021年9月7日火曜日

パラリンピック

 

パラリンピックを見るといつも自分の努力の足りなさを痛感させられる。

何年前だったか、冬季のパラリンピックだった。脚が一本しかない人が急斜面をスキーで滑り降りていく。両手に持ったスティックを巧みに使い、左右の体重移動でバランスを取りながら滑る姿は勇壮だった。私なんか脚が二本もあってもまともに滑れないというのに。

そして今回は山田美幸さん。生まれつき両手がなく、両脚も不完全でしかも不揃いだ。プールへの出入りも一人ではままならないだろうと思うが、水に入れば両脚のキックだけで背面で泳ぐ。左右不揃いで進行方向の制御が難しかろうに、キックの強さや頻度を調整したり、体の筋肉を使って直進するコツを掴んだのだと思う。銀メダルを取って、14歳の彼女が爽やかな笑顔で言った言葉に胸が熱くなった。

「次に何をすべきかを常に考え、努力を続けていきたいと思います。」

2019年つまり彼女がまだ12歳の時、お父さんがガンで亡くなったそうだ。その時も彼女は何をすべきかを考え、努力を続けたのだろう。

努力を続けているのは彼女だけでない。出場した全ての選手が同じような事を肝に銘じている筈だ。そう思うと、上位三人だけに授与されるメダルに拘るのは如何なものか。ニュース速報や号外とメダリストだけがクローズアップして報道される。確かに彼等におめでとうは言いたいが、惜しくも三位以内に入れなかった人だって十分に称賛に値する。その努力の大きさからすればメダルの有無は小さな事だ。

考えてみれば我々の人生もパラリンピックみたいなものだ。幸い手も脚も二本づつあり視力も聴力もあるが、神様から見れば洞察力もなく、決断力もなく、ないないづくしの不十分な能力で人生というレースを戦っている。メダルは取れなくてもいい、努力した自分に納得できれば。