2022年5月31日火曜日

摘蕾

出雲の実家に帰る度に庭の草取りという苦行が待ち受けているが、五月の連休前後の帰郷は躑躅や芍薬の花がやさしく慰みを与えてくれる。今年は特に芍薬が沢山の蕾をつけていた。

十個以上はあったろう、あどけない無垢の少女のような蕾がいつ花開くのか楽しみにしていたが、ある日草刈りに芍薬の植わっている場所の南側に回ってみて驚いた。一つだけ南を向いていた茎の先に大輪の花が咲いていたからだ。他の多くの茎が真っ直ぐ上に、どちらかと言えば北向きに伸びていて、それらに隠れて部屋から眺めていた時には見えなかったのだ。

ほんのわずかの日当たりの違いだけでこんなにも成長に差が出るものなのか不思議に思ったが、よくよく見ると他の茎が複数の蕾をつけているのに対して、その茎は花が一つしかない。ネットで調べてみると「芍薬は1本の茎に1つの花を咲かせるのが一般的です。脇のつぼみは摘み取って頂点の花にエネルギーを集中させます。」との解説があった。そしてその作業を「摘蕾」と呼ぶのだという事もその時知った。

しかし、以下は私の個人的な感想に過ぎないが、折角花を咲かせようと生まれて来た蕾を摘み取ってしまうなんて可哀相でとても出来ない。花が咲くのが少し遅れてもいい、花の大きさが少し小さくてもいい、全ての蕾に公平にチャンスを与えてやるのが人情というものではないか。全体の為に個を犠牲にするという考えにはどうしても同意できない。かつてナチスは優生学を信奉し、より良い社会のためにと称して障害のある人を排除抹殺したが、そんな事は絶対に許してはいけない。

花開いたのを順次お墓にお供えして行ったが、帰省の最後の日には蕾のままのものも切り取ってお墓に供えた。その後立派な花を花立で咲かせてくれたと思う。

2022年5月24日火曜日

4630万円の謎

山口県阿武町の誤送金事件は腑に落ちない事だらけだが、マスコミ報道はそのどれにもまともに応えてくれない。

まずは送金を実行した銀行の過失を問う声がない。町が通常使っているフロッピーディスクではなく、紙の依頼書を送ったのがそもそもの原因だと言われる。紙の依頼書の場合、名簿の一番上の人に送金する事になっている、というのも信じ難い慣行ではある。その依頼書の実態が全然報道されないが、その書類には「生活困窮者に対する特別給付金」だというような標題はついていなかったのだろうか。もしそういう文字があったのなら、一人に送金する額として不自然である事は銀行の担当者ならすぐ分かった筈だ。実際に町は銀行からの指摘によって誤振込に気付いている。銀行から町への問い合わせが振込前に実行されていれば、誤送金は防げた筈だ。

支給対象の名簿も不思議だ。一番上がアイダとかならともかく、タグチが一番上になったのは何故か。よりにもよって最悪の人になってしまった。週刊紙によるとホームセンターの正社員として月25万円の給与を貰っている独身貴族が生活困窮者として支給対象名簿に名を連ねている事も不思議だがマスコミはそれを取り上げてくれない。

弁護士と相談した後も出金を続けているのを見ると弁護士がどんなアドバイスをしたのかも不思議だ。弁護士とは本来依頼者の利益の為に知恵を出す職業の筈だ。だとすれば、高々4630万円のために人生を棒に振るよりも、ホームセンターの正社員として正直に生きる方が遥かに本人の為になるという事を日本の司法制度に照らして説明すべきではなかったか。それともそれだけの常識や倫理感すらない人が弁護士を名乗って仕事しているのか。それがこの事件で一番ショックな事だった。

2022年5月17日火曜日

行進

 国際報道で流れた二つの行進の映像に注目した。

一つはモルドバで行われた対独戦戦勝記念のパレードの様子を報じたもの。吹奏楽の音楽隊が皆それぞれ独自の服装をしている。白いワイシャツ姿でトランペットを吹く人、黒いジャケットを着てトロンボーンを吹く人。その雑多な服装は全員が綺麗に揃った服を身にまとったモスクワでの行進と見事な対照をなしていた。

皆が同じ服装で一斉に同じ行動を取るという事に私はちょっとした恐怖を感じる。ナチスがそうだった、北朝鮮もそうだ。そこには「強制」「動員」といった裏側が透けて見える。全員が自発的に参加したものならその服装はバラバラになって当然だ。

物理学に乱雑さを示す指標としてエントロピーという概念がある。熱力学の第二法則はエントロピー増大の法則と言う。自然は放っておけば乱雑になる、と言うのだ。人間社会にも同じ法則が成り立ちそうだ。自由な社会は乱雑さを好む。民主主義はエントロピーを増大させるのだ。

もう一つの行進はアフガニスタンの政府の方針に抗議する女性のデモだった。タリバン政権の勧善懲悪省(こんな組織があること自体が驚きではあるが)が家族以外の男性の前では女性に顔を覆うことを義務化しようとしている事に対して女性が反対の声を上げた。ここで気になったのはデモ行進をしているのが全員女性で、男性が一人もいなかった事だ。

イスラム教では女性の美しさを公にしてはいけないらしい。イスラム教徒の女性はほとんどがスカーフで髪を隠しているのも髪が美しいからだ。これは女性の性的魅力を覆い控えめな見た目にして、性被害を避けることが目的だそうだが、アラブの男性達は美女の顔を見ただけで劣情を催すような存在であると思われている事に異論はないのだろうか。

2022年5月10日火曜日

進化

NHKのカルチャーラジオで聞いた話。人類こそが進化の最終形態だと思っていたが、実は類人猿はまずオランウータンが枝分かれし、次にゴリラ、次に人類とチンパンジーが分かれ、その後チンパンジーの枝からボノボが枝分かれしたのだそうだ。単純に時間的観点から言えばボノボの方がより新しい事に驚いた。

互いに分かれた後、人類もチンパンジーもそれぞれに進化した。チンパンジーは枝をつかむのに適したように手を進化させ、親指以外の4本を長く強くした。その結果手の甲を下にして歩くようになったのは長い指が歩く際に邪魔にならないためである。人類とチンパンジーの共通の祖先・プロコンスルは手の平を下にして歩いていた。

逆に人類は足の方を進化させた。直立二足歩行する際に、早く歩くためには指が長いと邪魔になる。水泳のひれをつけて歩くことを想像したら良い。人類は歩きやすいように足の指を短くしたのだ

それにしても直立二足歩行とはなんと馬鹿な進化をした事か。移動手段の強力化は動物にとって生存戦略上最も重要な事柄の筈だ。その証拠に過去には何度も空を飛ぶ様に進化した動物がいる。トンボや蝶などの昆虫がまず空を飛び、次に恐竜のうち翼竜が、そして鳥類が、最後に哺乳類の中から蝙蝠が空を飛ぶ様に進化した。しかし直立二足歩行などと言う移動に不便な進化をしたのは人類のみ、空前絶後の事だ。だが幸いそれにより両手が自由になった事が人類の知能を発達させた。

人類が牙を退化させたのは、同種の殺し合いをする必要がなくなったからだと講師は言う。チンパンジーは少なくとも一割が仲間を殺した経験を持つらしい。だが私の素人考えだが牙が必要なくなったのは殺す必要性がなくなったからではなく、知能による武器という別の手段で殺す方法を考え牙が必要なくなったたからではないか。知能を発達させた事が人類にとって良かったかどうか、今ウクライナで試されている。

2022年5月3日火曜日

持てる国

 国連改革の一環として常任理事国の拒否権乱用に歯止めをかけるため、拒否権を行使した場合国連総会を自動的に開き、説明を求めるという決議が採択された。結構な事だと思うのだが、その弊害として「拒否した国の意見をアピールする場として総会が利用される」のを危惧する意見があったのには違和感を禁じえなかった。

国連に限らずあらゆる会議は多種多面的な意見を自由にアピールする場であるべきだと思うのだが、国連ではアピールして良い意見と、してはいけない意見があるとでも言うのだろうか。意見を聞く事と、それを認める事とは別次元の問題だ。まさか英米の思惑に沿った意見なら良いが、そうでないものは封殺されるべきだというわけでもあるまいが。

421日発売の週刊新潮に面白い記事があった。片山杜秀氏のコラムで「世界の周縁で『英米本位を排す』と叫ぶもの」との題だった。それによると第一次大戦が終わった時、まだ20代の近衛文麿公爵が「英米本位の平和主義を排す」という論文を書いたそうだ。勝利者の英米は講和会議を前に民主主義、平和主義、人道主義、自由、平等と御託を並べる。だが、英米は世界の海を制し、広大な植民地を持って富と資源を半ば独占し、自分らの欲望を平和的な手段で追及できるアドバンテージを持っている。彼らは野心を正義の包装紙で包んでいるのだ。先に富んだものが「金持ちは喧嘩せずとも別の方法で相手を黙らせられる」との理屈を平和主義にすりかえ、善を独占している、と。

同じ事が今また国連で行われているのだろうか。高校時代、世界史の授業で「持てる国」と「持たざる国」の対比について習った事を思い出す。あの時は友人と「男の場合は『モテる男』と『モテざる男』に分かれるなあ」と冗談を言ったものだった。