国連改革の一環として常任理事国の拒否権乱用に歯止めをかけるため、拒否権を行使した場合国連総会を自動的に開き、説明を求めるという決議が採択された。結構な事だと思うのだが、その弊害として「拒否した国の意見をアピールする場として総会が利用される」のを危惧する意見があったのには違和感を禁じえなかった。
国連に限らずあらゆる会議は多種多面的な意見を自由にアピールする場であるべきだと思うのだが、国連ではアピールして良い意見と、してはいけない意見があるとでも言うのだろうか。意見を聞く事と、それを認める事とは別次元の問題だ。まさか英米の思惑に沿った意見なら良いが、そうでないものは封殺されるべきだというわけでもあるまいが。
4月21日発売の週刊新潮に面白い記事があった。片山杜秀氏のコラムで「世界の周縁で『英米本位を排す』と叫ぶもの」との題だった。それによると第一次大戦が終わった時、まだ20代の近衛文麿公爵が「英米本位の平和主義を排す」という論文を書いたそうだ。勝利者の英米は講和会議を前に民主主義、平和主義、人道主義、自由、平等と御託を並べる。だが、英米は世界の海を制し、広大な植民地を持って富と資源を半ば独占し、自分らの欲望を平和的な手段で追及できるアドバンテージを持っている。彼らは野心を正義の包装紙で包んでいるのだ。先に富んだものが「金持ちは喧嘩せずとも別の方法で相手を黙らせられる」との理屈を平和主義にすりかえ、善を独占している、と。
同じ事が今また国連で行われているのだろうか。高校時代、世界史の授業で「持てる国」と「持たざる国」の対比について習った事を思い出す。あの時は友人と「男の場合は『モテる男』と『モテざる男』に分かれるなあ」と冗談を言ったものだった。
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