2022年6月28日火曜日

NO MORE GUNS:トライアングル第772回

 ロシアが余計な事をやってくれたお陰で、軍事費を倍増すべしという声が既定路線のように語られる。そんな中、敢えて疑問を呈したい。

先月アメリカテキサス州の小学校で銃の乱射事件が起き、生徒19人と教諭2人が死亡した。世論の多数は銃規制の厳格化を訴え、街には「NO MORE GUNS」と書かれたプラカードが溢れた。だがそこでトランプ前大統領は言う、「学校の教師にも銃を持たせろ、武装させろ」と。力には力で対抗せよ、教師が武装しているとなればそれが抑止力となって乱射事件はなくなるだろう、という訳だ。銃を減らすのではなく、むしろ銃を増やせと。幸いその意見は少数派ではあるようだが。

私が疑問に思うのは、軍事費の倍増を主張する人がこのトランプ発言をどう思うかだ。軍拡による抑止力で敵国からの攻撃を未然に防ごうという発想は、教師に武装させて学外からの侵入を未然に防ごうと言うトランプ氏の発想と全く同じに見える。

人と国とでは違う、という意見もあるだろう。ならば聞きたい。人と国とは何がどう違うのか。人には許されない事が、国に許されるのは何故なのか。「一人を殺せば犯罪者だが百万人を殺せば英雄だ」という事を言われるが、正しくは「人の名で殺すのは犯罪だが国の名で殺せば英雄だ」と言うべきだろう。百万人殺しても人の名で行えば大罪人に変わりない。

本当に平和を希求するなら矢張「NO MORE GUNS」しかないのではないか。どうしても足りない部分を補うため単年度予算の増額ならともかく、毎年毎年GDP2%を軍備費に充てて、使いもしない武器を購入し続けてどうする。まさか、本気で使う気なのか。それでなくとも、いつか使いたくなる人が出てきたら困ってしまうではないか。

2022年6月21日火曜日

手書:トライアングル第772回

 今この原稿はパソコンのワープロソフトで書いている。文章を書く際にワープロを使うようになったのは約40年前の頃、ワープロ専用機が個人でも手の届く値段になり、10万円程度で購入した機械でブラインドタッチの練習をした事を思い出す。

ワープロを使いたいと思ったのは、考えている事を文字にするのにその方がずっと早いからだ。それに文章を組み立てるにしても、まずは言いたい事を思いつくまま箇条書きにして、それらの順番を前後させたり、接続詞を交えたり、コピー&ペーストで推敲できる。こんな芸当が出来るのもワープロならではだ。以後ちょっとしたメモや走り書きをする時以外にはペンや鉛筆を使わなくなった。

ところで標題の文字をどう読まれただろうか。「テガキ」と読んだ方が多いと思うが、実はその言葉は昭和44年(1969年)発行の広辞苑第三版には載っていない。それもそのはず、ワープロが一般化するまでは文章を綴るのは手で書くのが当り前だったのだから。広辞苑に載っている「手書」は「テカキ」と読んで、「巧みに字を書く人」と説明がある。

手元にある辞書を調べてみたら1982年発行の新明解国語辞典には「テカキ」と共に「テガキ」が現れ、2008年発行の三省堂国語辞典では「テガキ」のみで「テカキ」は消えていた。

「テガキ」なる言葉がいつ現れたのか日本国語大辞典で調べると、1970年の曽野綾子「傷ついた葦」と同じく1970年の倉橋由美子「夢の浮橋」の二つの用例が載っていた。一方の「テカキ」は720年の日本書紀に既に現れているというのだから、こちらは随分と由緒正しい。

今ワープロで「テカキ」と入力したら「手書きあれども文書きなし」の慣用句が変換候補の一番上に出た。ワープロを使った文書き目指して精進しようと思う。

2022年6月17日金曜日

聖徳記念絵画館

 聖徳記念絵画館へ行きました。

受付を通ってホールに入ると、そこは天井の高い大空間。誰もいなくて、まるで「ようこそ、お待ちしておりました」とでも言ってるかのよう。凄く気持ち良かった!!
中の展示は明治天皇の誕生から崩御まで、さまざまなシーンを日本画に納めたもの。うち一点は我が故郷雲州平田出身の小村大雲の作もあった。だけど、他の作家の解説には殆ど出身地の説明があったのに、この人だけはない。しかも英語の解説には「Dai-un Komura」とある。ううん、平田では「オムラ」と言ってるけどなあ・・・
日露戦争に勝って、樺太の北緯50度以南を領有した時、国境を示す標石を置いたが、その複製が前庭にあった。
皆さんも是非一度行ってみて下さい。きっと面白いよ。特に明治維新に興味のある方は。








2022年6月14日火曜日

健全なスポーツ:トライアングル第771回

 経済産業省がスポーツ賭博を合法化する方向で検討を進めているらしい。読売新聞は67日の一面トップでそれを報道し、「猛反発は必至」と断固反対の論調で紙面を埋めた。

賭けの対象としては野球やサッカー、バスケットボールなどが想定されているようだが、野球賭博と言えばかつて池永投手が追放された黒い霧事件を思い出してしまう。今ならさしずめ大谷翔平や佐々木朗希が追放されるかのようなショックだった。そんな賭博をどうして今頃また蒸し返そうと言うのか。推進派の言い分を聞いてみると、日本以外のG7先進国では既に合法化されていて、そこで行われている賭けに日本人が参加し相当金額が国外流出していると言う事情もあるらしいが、この議論を進めている経産省の「スポーツ産業室」という名前からして要するにスポーツを通じてなんとか金儲けをしたい、というのが本音のようだ。文科省のToToに対抗する形の金蔓が欲しいのだろう。

スポーツをお金にする事で一番成功したのはオリンピックだと思う。しかし本来スポーツはお金儲けとは縁遠い存在のはずだ。記事を読むと「健全なスポーツの育成」という言葉が出て来る。健全なスポーツとは何か。白血病と戦い、それを克服してメダルを目指す池江璃花子選手の鬼気迫る物語は感動を呼ぶが、しかし健全さとはもっとどこにでもあるような凡庸なすこやかさを持つものであって欲しい。初老の男女が健康と親睦のために週に何回かテニスを楽しむとか、中高生が部活として汗を流しその活動を通じて淡い恋心が芽生える、のような。

万事がお金で価値を測られる昨今の世の中にあって、せめてスポーツくらいはお金と無縁であって欲しいと、テニス愛好家の一人として思う次第であります。

2022年6月7日火曜日

当事者意識

それを見た時は開いた口が塞がらなかった。ワイドショーが山口県阿武町での住民説明会の様子を報じていた。プロジェクターで大きく映された説明資料には4630万円と書くべきところが460万円、520日のはずが420日と誤記されていた。枝葉末節の変換ミスならともかく、一番肝心要の箇所のあり得ないような間違いだ。連日の対応に心身をすり減らしていたと仮にしても、事件の経緯からしても考えられない不注意さだった。

この緊張感のなさはどこに原因があるのだろうか。この事件だけではない、持続化給付金を巡る詐欺事件にしても、コロナワクチンの使用期限が切れて大量の在庫が無駄になった問題にしても、公金を扱う役人の能天気さ無責任さが気になる。どうせ自分のお金ではないのだからと思ってないか。自分のお金なら送金する際に何度も相手の口座番号や金額を確認するだろう、自分のお金で買う薬なら発注に細心の注意を払うだろう。仮に間違っても自分の懐は痛まない、損失は公金で補填すれば良い等という安易な気持ちがミスや無駄を誘発しているとしか思えない。

こんな人達に財政を任せておいて大丈夫なのか。コロナやウクライナ戦争によるインフレ等への対策と称して、箍が外れたように国債が発行され、湯水のように給付金が垂れ流しされる。さらに国防費も国債発行で倍増されるらしい。本当に国家財政は大丈夫なのか。民間企業も先行投資の為に借金をするが、失敗したら首を括らねばならないという危機感が一定の歯止めになっている。国策を担当する人達にも、もし失敗したら職を辞する程度では済まない損を負う事になるという当事者意識を生む仕組みがないと、いつかこの国は破綻するのではないだろうか。