2022年8月30日火曜日

宗教とお金:トライアングル第781回

 二人の宗教家がいたとする。一方はきらびやかで贅沢な服装をし、片方は質素で慎ましやかな服装をしていたらどちらをより偉大な宗教家と見なすだろうか。文鮮明とダライ・ラマを見比べて思いついた設問だ。金満家のイメージは宗教家に胡散臭さを感じさせる効果しかないように思える。イエスは粗末な布切れしか身に纏っていなかったろうし、釈迦は大金持ちの裕福な境遇を敢えて捨て苦行に身を投じた。

元々宗教とお金は縁遠いものの筈なのに、大きなお寺の本堂の中に入ると疑問が湧いて来る。そこでは天井から豪華な金の飾り物がぶら下がり、訪れた人を圧倒する。そもそもお寺の建物そのものが相当にお金の必要な規模と仕様で出来ている。そういえばお葬式にいらっしゃるお導師様の服装は決して質素なものばかりではない。時には金の刺繡の入った威風堂々としたお召し物の方もいらっしゃる。確かに乞食のようなみすぼらしい格好でお経を読まれても有難くないのかも知れない。いやいや、もしイエス本人が来てくれて、たとえ服装はみすぼらしくともその威厳に満ちた面持ちで故人の冥福を祈ってくれたなら、それが一番の供養になりそうだ。

要するに外見でごまかすのは自信のなさの表れではないか。教団を組織化し拡大しようとするのも同じメンタリティーによるものに思える。ミラノやケルンの大聖堂はよほど大きな教団組織を形成し、多くの寄進がなければ不可能だが、そういうことをイエスが望んでいたか甚だ疑問ではある。親鸞は教団の組織化には全く興味がなく「弟子は一人も持っていない」とか「私が死んだら遺体は鴨川に捨てて魚の餌にせよ」とか言ったと伝えられ、浄土真宗の今の隆盛は蓮如に負うところが大きい。東西本願寺の大伽藍を見たら恐らく親鸞は腰を抜かすに違いない。

2022年8月23日火曜日

二人の神様:トライアングル第780回

 811日の新聞は「大谷『神様』並んだ」と大谷の二刀流としての偉業達成を喜ぶ記事が紙面を飾った。日本人として仲間が本場で活躍する姿を見るのは嬉しいに決まっている。だがそこで、アメリカ人はどう感じているのかという思いがよぎった。

異国の選手が神様ベーブ・ルースと並ぶのを見るのは、立場を変えれば我々日本人にとって外国人力士が双葉山の記録と並ぶのを見るようなものだろう。狭量な私はそんな事にでもなれば気もそぞろになって、例えば白鵬の連勝記録が69に限りなく近づいたら彼が土俵で怪我をするとか、食当たりにでもなってくれないかと願ったりしたかも知れない。

大谷の10勝目が何度か足踏みしたのも、アメリカ人のそうした心理が影響したのではないかと邪推をしたが、どうやらそれは下衆の勘繰りに過ぎなかったようだ。1918年のルースの記録と、今年の大谷の10勝を上げた時点での記録を比較して面白い事に気が付いた。試合数は95107,勝利数は13勝と10勝、安打数は95102でほぼ同じ。だがホームラン数は11本と25本で倍以上も違う。そしてホームラン数がそれだけ違うにも拘らず、打点は両者とも66で同じだと言う事だ。つまり大谷が打席に立った時、塁が埋まっているケースが少なかった事を意味する。味方の援護の少なさを考えると大谷のより凄さを感じる。

もっとびっくりしたのはルースが盗塁を6個も決めている事だ(大谷は11個)。彼の生涯を描いた映画「夢を生きた男、ザ・ベーブ」では深酒も夜更しも当り前の不摂生で、相手チームからは風船野郎と野次られるほど太って、まともに走る事も出来ない選手として描かれていた。「我未だ木鶏たり得ず」と言った双葉山との対比を思ったが、実際はどうだったのだろうか。

2022年8月16日火曜日

思考停止:トライアングル第779回

「統一教会」のキーワードでグーグル検索をしてみて驚いた。地図が現れそこにおびただしい数の家庭教会の所在が図示される。こんな身近に活動拠点があったのか、と自らの不明を恥じた。そして関係のあった議員達の「そんな組織とは知りませんでした」とする臆面もない言い訳の白々しさを思った。

そもそも誰かが無料で何かをくれると言った時、普通の人ならどうするか。タダ程怖いものはない、とばかりにその申し出の背後を必死に探ろうとする筈だ。そして彼等の情報網を以てすれば容易にその正体は判明する筈だ。彼等は全て分かった上で、安倍さんとつながりのある団体なら大丈夫だろうと思考停止し、喜んで選挙協力を受け入れたと見るのが自然だ。

赤信号皆で渡れば怖くない的な身内優先型思考停止は大変危険だ。「統一教会と関係を持つ事の何が問題か分からない」という発言も出た。そんな事を言えば世間から反発を受ける事くらい分かりそうなものなのに敢えてそれを言ったのは派閥の受けを狙ったものとしか思えない。すなわち当該議員にとって国民の目より派閥の目の方が重要だったという事だ。ここにも身内論理優先の思考停止がある。派閥のトップとつながりがありさえすれば、彼等はオウム真理教であっても支援を受け入れたのだろうか。

それにしても岸さんや安倍さんは統一教会の理念・教義をどこまで知っていたのか。日本はエバ国でサタンの国であり、全てをアダムの国である韓国に捧げて当然なのだ、などという主張を知っていて、なおかつあれだけの関係を保っていたとなると、もうこれは私の理解を越えている。安倍さんがビデオメッセージを出したのはトランプ元大統領と歩調を合わせた結果らしい。とすると安倍さんも身内頼りの思考停止に陥っていたのだろうか。

2022年8月9日火曜日

神の言葉:トライアングル第778回

 人はどんな時に神の存在を意識するのだろうか。何か奇蹟を目の当たりにした時だろうか。神の声を聴いた時だろうか。神の声を聴いてアブラハムは我が子を捧げる決心をし、マホメッドは新しい宗教の開祖となった。山上容疑者の母上が多額の献金を決心したのも神の声を聴いたからだろうか。

私は神に何かお願いをする事はあっても、神から何かをしろと言われた事がない。恐らく「お前なんかに声を掛けても仕様がない」と相手にされていないだけなのだろう。だが、聴いた事はなくとも山上容疑者の母上が聴いたのが神の声ではなかった事だけは朧気ながら分かる。何故ならお金は俗世でしか意味を持たず、神が要求する筈もないからだ。

声を聴いた事はなくとも、神の存在を意識する事はある。数学の美しい式や定理を見た時だ。それは一種の奇蹟を見るに等しい。数学の最も基本となる01iとπとeの五つの数値が簡単な一つの式に納まっているオイラーの等式はその代表だ。映画にもなった「博士の愛した数式」でも紹介された。その単純さと完璧さは奇蹟としか思えない。

その他、全ての自然数を足し算で表した式の値が、全ての素数の掛け算で表した式の値に等しい、なんて言う式も不思議を通り越して感動を呼ぶ。ガウスの作図定理は「素数pがフェルマー素数の時、正p角形が定規とコンパスだけで作図できる。」と言うものだ。数字の議論が図形の議論とつながっているなんて神の仕業としか思えないではないか。

神が何かを語るとしたら屹度それは数学の言葉に違いない。残念ながら私はその言葉を理解するだけの能力がない。世の中には数学の難問に挑戦し数学を極めて、精神を病んだ人が沢山いる。ひょっとしたら彼等は神の声を聴き、自らを神に捧げたのだろうか。

2022年8月2日火曜日

神を信じる:トライアングル第777回

山上容疑者の母上は教団を信じて多額の財産を献金した。神を信じる者ならそんな事は序の口かも知れない。旧約聖書にはアブラハムが神の求めに従って大切な跡取り息子を生贄として捧げる話が書かれている。その息子はアブラハムが百歳にしてようやく授かっており、秀吉にとっての秀頼以上に可愛かったに違いない。因みにアブラハムには本妻サラが許した妾との間に最初の子がいた。子の出来ないサラが家系の維持のためしたことで、その子がアラブ人の起源となる。さて、本妻との間にようやく出来た嫡男イサクは父と一緒に祭壇作りを手伝わされ、まさか自分が生贄になるとは思わず「お父さん、たきぎと火はあるけど、肝心の子羊はどこにいるの?」と尋ねたりする。

アブラハムがそんな事をしたのは神の声を直接聞いたからだ。幸か不幸か、信心の深くない私に神が直接話しかける筈もなく、神を信じるか否かの厳しい試練に遭遇する事もない。ただ、何かを信じるか、と言われれば恐らく私は科学を信じている。各種の気象情報を元に科学が明日は雨になると予言すれば、それを信じて出かける時には傘を持参する。そしてもう一つ信じているものに「お金」がある。「一万円」と書かれた小さな紙切れは物を包むにも、鼻をかむにも、尻を拭くにも、燃やして暖を取るにも、殆ど役に立たないが、その魔力を信じて、それを得るためなら一日中汗水流して働く事を厭わない。実際その紙切れは、それを渡すと美味しい食事をくれたり、体をマッサージしてくれたりする。私以外の周りの人もその魔力を信じているからに違いない。

現代人がお金を信じあんな紙切れの為に右往左往するのを古代人が見たら不思議に思うだろう。丁度我々が人々を神が支配する中世キリスト教世界を不思議に思うように。