2022年11月29日火曜日

サッカーW杯:トライアングル第794回

 W杯初戦のドイツ戦の逆転勝利は見事だった。ゴールを決めた二人の選手に脚光が当たるのは当然として、あの勝利に貢献した最大の立役者はドイツの猛攻を何度も凌いだGKの権田選手だったと私は思う。彼に最大の拍手を送りたい。

選手の活躍を見るのは嬉しい事だが、フィールドと観客の間にある広告の掲示を見るとちょっと淋しい。かつてはTOYOTACANONの文字が躍っていたその場所に、今回は日本の企業の名前が全くない。中国からは海信、万達、蒙牛の三社、韓国からは起亜、現代の二社の名前が見える。韓国の企業は世界市場を睨んでいるのかアルファベット表記だけだが、中国の企業は漢字表記も交えている。漢字を読めるのは日本と台湾と中国くらいしかないだろうから、この広告は国内の顧客向けに発せられていると考えるべきか。中国はチームが出場していないが、それでも多くの人がこの大会に注目しているという事なのだろう。

今大会から各種判定に最新技術が応用される事も話題になっている。実際攻撃側の選手の肩が、守備側選手の足先よりほんのわずか前に出ていた事でオフサイドの判定がなされた例もあった。そういう事が出来るなら各種データが綿密に取られているはずだ。選手の靴底に埋め込まれたICチップで各選手が何m走ったか等も把握されているだろう。そうしたデータをどうして公開しないのだろう。テニスの試合ではセットの合間にサーブの確率など両選手のパフォーマンスデータが表示される。サッカーだって、ハーフタイムの時間に両チームのデータを表示して欲しい。シュートの総数と枠内の数、コーナーキックやフリーキックやファウルやパスインターセプトの数、選手毎の走行距離を多い方から順に、など観戦をより楽しくするためのデータはいくらでもあるはずだ。

2022年11月22日火曜日

秋の深まり:トライアングル第793回

 勤労感謝の日が近づくと流石に秋の深まりが感じられる今日この頃である。今年は10月の下旬から穏やかな小春日和が続き、紅葉も少し足踏みかと思ったが鰐淵寺は今頃紅葉狩りの人で一杯なのだろう。

暑かった夏が終わり、次第に日が短くなるにつれて木々の葉が色を変え落葉し、次に来る冬の寒さが徐々に実感として身に沁みるようになる感覚は「深まる」という言葉がぴったり当てはまる。「高み」から「深み」へ、「高揚」から「落ち着き」へという方向感覚が「深み」という言葉に良く合致するからだと思う。

だから「春が深まる」という表現には非常な違和感があった。春という季節は基本的に上昇志向で、これから隆盛に向かう気分が「深み」という語感に馴染まない。「春爛漫」という浮き立つような言葉こそ、そうした春の気分によく似あう。

ある小説を読んでいて次の表現に出会った。「春も次第次第に深まり、これで色づきはじめた桜のつぼみがほころんで、そして一夜の雨風に散ってしまえば、あとはただ濃い緑と輝く日差しの初夏へと移り変わって行くばかりだ。」これから夏に向かって行くのが淋しいとでも言っているかのようだ。こんな日本語はおかしいのではないかと思って、周りの友人の意見を聞くと、多くの人が「春が深まる事はないと思う」と言う意見だった。

ただ、これを書いたのは柴田翔、芥川賞を取ってドイツへ留学し、東大文学部の学部長まで務めた人だ。まさかそんな人が間違いはすまいと思っていろいろ調べると「春深し」という季語がちゃんとあるらしい。「春深し妻と愁ひを異にして」(安住敦)などの作例が紹介されていた。

ついでに調べると、冬も夏も深まるものらしい。冬は一番厳しい頃、夏は終わりの頃を言うとの事だった。

2022年11月15日火曜日

3億円の箱:トライアングル第792回

 鳥取県が倉吉市に建設を予定している県立美術館の目玉として購入したアンディ・ウォホールの作品が「3億円の箱」として話題になっている。ポップ・アートの傑作かどうか知らないが、見た目には何の変哲もないただの箱に見える。それを1個約六千万円で5個買おうというのだから異論が出るのも頷ける。反対するのはウォホールを知らないからだという意見があったが、ウォホールの名の前に無批判盲目的にひれ伏すというのも美術鑑賞の姿勢として如何なものか。しかもウォホールが作ったのはその内の一つだけだと言うではないか。

元々、美術品を買うという行為はある種の道楽で、苦労の末成功し財を成した人がやる事だと思っている。足立美術館や根津美術館、山種美術館などが道楽として自分の責任において購入作品を決め、それが無駄使いになろうがある意味勝手だが、自治体がやる場合は注意が必要だ。美術教育の意味合いや、県民に潤いの場を提供するという目的があるにしろ、税金の無駄使いと後ろ指をさされないためには、作品の購入に当たって一定の基準を設けるべきではないだろうか。

例えば、地元出身の美術家や地元にゆかりのある人の作品を優先するとか。長谷川利行や村山槐多は絵具を買うお金にも不自由していたそうだが、そんな時彼等の出身地の美術館が作品を買い上げればもっと良い作品を残したかも知れない。松本竣介は松江にも住んだ事があって、松江市で彼の作品を鑑賞する機会があればと思うのに彼の作品の多くは岩手県立美術館にある。

平井知事は「シャガールとかルノアールとかなら県民の理解が得やすいだろうが、それは何十億、何百億になる」と仰ったとか。そんなビッグ・ネームに頼っている内は、知恵と工夫が足りないと言われても仕方ない気がする。

2022年11月8日火曜日

出雲弁に誇りを:トライアングル第791回

 もっと出雲弁に誇りを持つべきだという事を教えてくれたのは「はやす」という言葉だった。「キュウリやスイカをはやす」の「はやす」を辞書で引いて驚いた。その漢字が「生やす」だと言うのだ。「切る」という意味に「生」の字を使うとは。忌み言葉を嫌う京都のお公家さんの考えそうな事だ。広辞苑には例文として保元物語「其の後は御爪をもはやさず、御髪もそらせ給はで・・・」(爪も切らず、髪もそらないで)崇徳上皇が怨念をたぎらせる様子を描く部分が引用されている。

現在の日本で「切る」という意味で「はやす」という言葉を使っているのは出雲地方だけではないだろうか。中世の由緒正しい日本語が今も残っているという意味で、出雲弁は大切で誇りにすべきものではないか。そう思って色々辞書を引くと、我々が出雲弁だとばかり思っている言葉が実は由緒正しいものだという例が沢山見つかる。

母がよくこぼしていた「けんべき」は「痃癖・肩癖」という立派な字を持っていて、意味もちゃんと「肩こり」の事だと書いてある。「その服、かいさめだねか」の「かいさめ」は「反様(かいさま)」で、「カイサマに着物を着る」の用例が載っている。「かいしきえけだった」の「かいしき」は「皆式・皆色」だし、これはないだろうと思っていた「はばしい」もちゃんと「幅しい」として日本国語大事典に載っていた。

出雲弁に誇りを持つための一つの方法は、その言葉を漢字にしたらどうかを考える事ではないか。「えしこ」「わりしこ」の「しこ」は「趣向」ではないかと思っているのだが、どうだろうか。

(注。日本国語大事典によれば「はやす」を「切る」の意味で使っているのは、青森から新潟、静岡、長崎対馬に至るまで全国各地で見られるそうです。訂正します。)

2022年11月1日火曜日

か、かかーか:トライアングル第790回

 ハデバやシシシなど懐かしい風景がなくなったのも寂しいが、方言を聞く機会が減ったのも寂しい。石川啄木は「ふるさとの訛りなつかし」と詠った。あの頃だと上野駅の東北線ホームに行けば懐かしい訛りが聞けたのだろうか。ならば京都駅の山陰線ホームに行けば出雲弁が聞けたのか。最近は地元に帰っても出雲弁がなかなか聞こえない

スーパーでレジを打っているおばさんが標準語で話すのは店から指導もあるだろうから仕方ないとして、還暦の同窓会で同窓生のおばさんが「そげだわね」でなく「そうなのよ」なんて言うのを聞くとシラケてしまう。不必要なまでに方言を使うのも如何かと思うが、懐かしい場面では方言の持つ温かみが欲しい

そんな訳で東京近辺に住む高校同窓生のメーリングリストでは「こぎゃん出雲弁知っちょーか」という話題で盛り上がった。私が出した「か、かかーか」は結構難問だったようで、「さ、なんかい?」という質問が多数あったが、古ぼけたラジオを指差して「か、かかーか」「えんやめげちょーが」という文脈なら皆納得してくれた。

「これは」の「か」と疑問の「か」を組み合わせると、「か」だけでかなりの表現が出来る。これに「母さん」の「かかー」を追加して、ある友人は「かかー、かかか」という文を作った。両手で小さな虫をパチンと殺して、そばにいる母さんに示している情景が浮かぶ。

もっと傑作は、奥さんと車の購入について話し合った時の事を表現した「かかー、かーかーか」という文だ。漢字仮名交じり文で書けば「嬶ー、car買ーか?」になるのは言うまでもない。英語まで出すのは若干邪道気味かな。

方言が聞かれなくなったのは何故だろう。中国の少数民族は必至で自分らの言葉を守ろうとしているのに。出雲弁に誇りを!