2024年3月26日火曜日

客観評価

 映画を生業とする者にとってアカデミー賞は科学者にとってのノーベル賞にも匹敵するものだろうし、日本人の作家が芥川賞を受賞する以上の喜びであり誇りであるのだろう。だから受賞の瞬間、感極まってガッツポーズを作ったり、関係者が抱き合って喜ぶのも当然なのだが、それを見ていて素直に一緒に喜ぶ事が出来なかったのは何故かを改めて考え直した。

もしウィンブルドンのテニス大会で日本人選手が優勝したのなら屹度我が事のように喜ぶ事が出来ただろう。ウィンブルドンとアカデミー賞の違いは何なのか。

受賞の挨拶をした監督がカンニングペーパーを見ながら下手な英語を喋っていたからだろうか。全て暗記しておくなら兎も角みっともない姿で、しかもあんな英語だと現地の人は殆ど理解できなかったのではないかと思われる。堂々と日本語で臆することなく挨拶してくれたらもっと違う印象を持ったかも知れない。野球のメジャーリーグでMVPを取った大谷選手が堂々と日本語で会見をするのを見て誇りを感じるように。

いやいやウィンブルドンとアカデミー賞にはもっと本質的に違うものがある。ウィンブルドンでの優勝は誰にも文句のつけようがないという事だ。一定のルールの下で技を競い合い、誰にも負けなかったという事実は万人が認めざるを得ない。一方で映画の価値とは多分に主観的な要素が入り、A作品とB作品のどちらがより優れているのかというのは一概には言えない。そうした背景の元での受賞とは、ようするに審査員であるアメリカ人のお眼鏡に適ったというだけの事ではないか。その価値観に屈してしまっているという構図がどうにも素直になれない原因を作っていたのだと思う。

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