2016年5月31日火曜日

守秘義務

東京五輪の招致を巡るコンサルティング契約の疑惑について守秘義務という言葉が出てきた。守秘義務契約があるから契約先の詳細を明らかに出来ないと言うのだ。これには驚いた。
私も現役時代には何通もの守秘義務契約を結んできた。製造業が生産工程の秘密を守るためであったり、新製品に関する情報の漏洩を防ぐためであったり、いずれにしろ発注者の利益を守るために受注者に課せられた義務を謳ったものばかりで、発注者サイドがその秘密情報を公開するのは全く自由だ。発注者の方が受注者から課せられた守秘義務なんてものがあり得るのだろうか。ゴルゴ13に殺人を依頼するみたいな悪事をなす時なら分からなくもないが。
そもそもこの契約の原資はおそらく公金のはずだ。五輪招致で潤う建設業や観光業が私的に捻出したお金ならともかく、公金を使って守秘義務が必要な契約をするというのは如何なものか。公私の区別の出来ない人が公金を扱ってはいけない。
相手の秘密を守るためという口実はどこかの都知事にも使われた。某ホテルで政治活動としての会議を行ったというが、よく聞けば都知事選への出馬について話し合ったとか。こちらも公私の区別が苦手のようだ。自分の身の振り方を話し合う事はどう見ても私的な活動だ。それを政治活動と呼ぶ感覚が理解できない。
吉田松陰は子供の頃玉木文之進の教えを受けている最中、頬に止まった蚊を追い払おうとしてきつい叱責を受けたという。世のための勉学という公の行いの最中に、自分の身を守るが如き私的な事に気を取られるとは何事か、というのだ。明治維新はこうした厳しい公私の別に支えられて成し遂げられた。
日本人が公私の区別を忘れようとしているのはどうしてか。いつ頃からそうなってしまったのだろうか。

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