「オリンピックは参加する事に意義がある」。私が子供の頃はそう教わってきた。勝ち負けに拘らず、各国選手達と交流を深め、平和の大切さを実感する事がオリンピックの意義だ、というように理解していたが、昨今のオリンピックはメダルを取る事に意義があるというふうに変わってきたようだ。
そもそも「参加する事に意義がある」というのは参加する人が少なくて、選手に参加を呼び掛ける標語だったみたいだ。クーベルタン男爵が古代ギリシャのオリンピックを近代に甦らせようと苦労した経緯はその伝記に詳しいだろうが、初期の開催期間を見ても分かる。第一回アテネ大会は1896年4月6日から15日まで、これはまあ理解できるとして、それ以降第二回パリ大会は5月20日から10月28日まで、第三回セントルイス大会は7月1日から11月23日まで、第四回ロンドン大会は4月27日から10月31日までと言った具合で開催期間が異常に長い。これは同時に開催された万国博の余興として行われたからだ。五輪が万博の余興?!今では考えられない状況だが、おそらく選手も集まらず、お金も集まらなかったのだろう。優勝した選手に賞金も出せないからメダルで誤魔化した、などと思うのは下種の勘繰りだろうか。
今やオリンピックは絶大な権威を獲得し、参加したい選手が溢れている。賞金を貰えなくても良いから兎に角出たい、というのだから凄い事だ。ならば当初の標語を思い出して、参加する意義を再認識して、参加したい人は全員参加させれば良いではないか。大会運営の都合もあるだろうから一定の基準をクリアした人という線切りは必要だろうが、個人出場枠の創設を提案したい。卓球やマラソンや柔道など出場枠が限られている選手たちを見ると可哀そうだ。
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