小室夫妻の会見を見ても眞子さまの幸せへの心配が払拭される事は残念ながらなかった。が、今回はそれを離れ、一般に幸せとは、幸福とは何かについて考えてみたい。
各地の神社を訪れる度に、そこにぶら下げられている絵馬に書かれている事を読むのを密かな楽しみにしている。中には細かい字で自分の境遇を何枚にも渡ってびっしり書いてあるものもあった。全部は読まないがきっと最後には「だからこうして下さい」と書いてあるのだろう。そんな中で、一番多い願い事は「幸せになりたい」という事である。
さて、「幸せにして下さい」とお願いされた神様はその人にどうすれば良いのだろう。「志望校に合格したい」とか「思いを寄せるあの人と結ばれたい」とかなら神様も具体的対処が出来そうではあるが、「幸せになりたい」では神様もどうして良いか当惑されるように思う。「大金を入手したい」と書いた人が、愛する我が子を交通事故で失った代わりに多額の賠償金を得たという冗談めいた笑い話もある。
新明解国語辞典は「幸福」を「現在の環境に十分満足出来て、あえてそれ以上を望もうという気持ちを起こさないこと、またその状態」と説明している。ソフトバンクの孫社長は1兆円の利益を計上した決算発表の会場で「1兆や2兆で満足はしない」と豪語した。現状に満足しない孫さんは幸福ではないのか。それもちょっと違う。
幸せでない状態は容易に想像できる。大きな災害にあったり、飢えたり凍えたり。愛する人を失うのもそうだろう。要するに大切な何かが欠乏する状態だ。幸福の多義性と不幸な状態の明確さを鑑みると「幸福とは不幸ではない状態」と定義するしかないような気がする。
孫さんが不幸に見えないのは彼が足りないと感じているものがきっと大切なものではないからだろう。
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