2021年12月28日火曜日

この一年

 

今年も残すところあとわずか、振り返って今年の我が家の十大ニュースは何だっただろうかと考えている。毎年家族が集まる新年会でそれを披露するのを恒例行事にしているからだ。孫たちの小学中学高校への入学などいろんな事があったが、今年のトップニュースは何といっても家族全員がコロナと無縁で過ごせた事としたい。日本国内に限って言えばようやくコロナも下火になり、どうかこのまま収束して欲しいと願うばかりである。

さて、例年紹介しているその年一番印象に残った映画や本であるが、映画は三月に当コラムで取り上げた「東京裁判」を超えるものはなかった。歴史とは評論されるものを無批判に受け入れるのではなく、事実を多面的な視点から見る事が大切だと思わされた。本で印象に残ったのは原田伊織氏の「明治維新という過ち」や「官賊と幕臣たち」などの一連の著作、小島寛之氏の「世界は素数で出来ている」などの一連の著作だ。前者は題名からも想像されるが、明治維新は薩長が創りあげた虚構で、薩長史観から抜け出せと警告を鳴らしている。明治期、旧幕臣が活躍した事は大河ドラマでも取り上げられた。歴史が勝者によって都合の良いように書き換えられるのは当たり前の事で、古事記や日本書紀による藤原史観もその一つかも知れない。

小島氏の著作は私の中の数学愛を呼び覚ました。素数が如何に素敵な数なのか。素数があるからこそ安心してネットで買い物が出来る。そしてある本に書いてあった「整数は掛け算だと素因数分解で一意に表せるが、足し算ではそうならない」という事実にも改めて驚いた。掛け算があるからこそ素数という概念が生まれる。それに気付いた時の驚きは今年一番のものだった。

では皆様、良い年をお迎えください。年明けは11日からお目にかかります。

2021年12月21日火曜日

ナビ不要論

 あれからカー用品店に最新のカーナビを買いに走ろうかと思ったが、いや待てよ、その必要はないのではと思いついた。そして前回の不用意な発言のお詫びの意味も込めて、舌の根も乾かぬうちにカーナビ不要論をぶつ事にする。ナビゲーションシステムそのものが不要だと言うのではなく、専用部品としてのカーナビは要らないという事だ。昨今ではスマホのカーナビアプリが十分にその機能を果たしてくれるから。

スマホのアプリなら常に情報が最新のものにアップデートされている。それはスマホがクラウドから情報を得ているからだ。クラウド、つまり雲とは良く言ったもので、どこにあるのか特定は難しいが兎に角どこか遠い所にあって、インターネットを介して全世界に情報を提供している。インターネットが出来て、しかも通信速度が飛躍的に速くなって、情報を保管する場所はどこでも良くなった。電気代や不動産価格などの経済的要素や災害や暴動などのリスクなどを勘案して世界中から最適な場所が選ばれている。設置国の公表を義務化するよう法改正があるとの記事を最近見た。

コンピュータ界の変化は専門家の予想すら遥かに超えるものだった。IBMの初代社長が「世界のコンピュータ市場は5台くらいだろう」と言ったという話は有名だし、マイクロソフトの創業者ビル・ゲイツは「パソコンのメモリは640KB以上を必要としない」と言った。今私のパソコンはその一万倍以上のメモリを持っている。今になって思えばそれらの予想が如何に馬鹿げたものだったか。

今後も情報技術は誰も予想できないような量と質の変化をして行くに違いない。取り敢えず数万円もするカーナビを買うのはやめて、スマホを車のダッシュボードに固定する器具とスマホに電源を供給するケーブルを数百円で調達する事にしよう。

2021年12月14日火曜日

ナビ

目的地までの道路を的確に案内してくれるナビゲーションシステム(以下ナビ)は今やタイヤやハンドルなどと同じくらい車にとって必須な構成部品ではないか。十年以上前の古いナビである地方都市を訪ね、改めてそう実感した。

初めて行く町を観光する時はまずその市役所を目指す事にしている。地方で市役所と言えば大体一番大きな建物で良く目立つし、駐車場も充分に用意されている。そこでその町の観光地図を入手して、どこをどう回るか作戦を立てようと言う算段である。

その日も市役所をナビに設定して出発した。ところが、目的地周辺に近づいてもそれらしき建物が見当たらない。近くにいた人に尋ねると「市役所は移転しました」というのだ。跡地には新しい建物が建っているからそれ程最近の事でもないのだろう。それを私のナビは知らなかった。観光を終えて、予約したホテルに行こうと電話番号を打ち込んだら「その番号は登録されていません」とナビは言う。驚いてホテルに問い合わせると「当ホテルは三年前に出来たばかりで古いナビだと登録されていないかも知れません」。住所も恐らく分筆したせいだろう、番地がナビに登録されてない。そもそもこの町に来るまでの高速道路をこのナビは知らなかった。紙の地図を頼りに自力で運転する事の何と疲れる事か。

車の部品が使用に耐えられるかどうかをチェックするために車検という制度がある。ナビも車検の対象にしなくて良いのか。今後自動運転の車が増えるだろう。その際、ナビが最新情報を持っていなかったら一体どうなるのだろう。道路は新しく作られる。建物だって移転も解体もするだろう。欧州なら国をまたいだ移動だってある。それらを網羅するのは可能なのか。自動運転車は知らない町へは行けないのだろうか。 

2021年12月12日日曜日

車での旅7:総括

 出雲から埼玉までの900km強を一気に走るより、三泊四日の行程にすれば疲れは四分の一で済むだろうと思ったのが大きな間違いだった。逆に疲れは四倍になった。

考えてみれば、パック旅行で観光と運転を一人でこなすようなものだ。

そもそも観光そのものが結構疲れる。ガイドさんの後についてあちこち歩き回ってホテルに着くと疲れが出て、夕食にビールを飲んで床に就けばすぐに眠れる。パック旅行なら次の日の運転は運転手さんがしてくれるが、一人だとそれも自分がやらねばならない。

しかも今回は博物館系の展示物を注意深く見て回る事を主体にしたのがいけなかった。のんびり城や庭を見て回る程度にしないと。

次回同じように出雲と埼玉を寄り道して行き来する時は、温泉地巡りと称して、温泉に浸かりながらの行程にしようと思った。

車での旅6:明治村

 舞鶴で一泊した後、明治村へ

明治村は建物だけでなく、中に展示された明治期の近代化の歩みを示すパネルが興味深かった。電信や医学や時計や鉄道等々。それらがどう日本に定着したのか。そしてブラジルやハワイへ移住して一旗あげようとした人達の苦労話も。(ハワイへ移住した人の数が広島、山口に多いのはどうしてだろうか?)
全部を読もうとすると疲れてしまう。園内を一万歩以上歩いて、漱石の書斎を再現した部屋に来た。「漱石になって写真を撮りましょう」とあったので、そうする事にした。



車での旅5:白樺日記

 舞鶴引揚記念館の感動物の一つが白樺日記だ。紙がないので白樺の樹皮に日記を綴る。ペンは空き缶を加工し、煤を水に溶かしてインクにしたという。そして短歌を書き綴った。シベリア抑留中の収容所の過酷さはユダヤ人の強制収容所にも匹敵するものだったと思うが、その中で日本人はこうして短歌を詠ったのだ。(短歌の一部は修正の紙が貼ってある。受託や「じゅたく」のルビは修正しないのだろうか?)



車での旅4:舞鶴引揚記念館

展示内容は感動を呼ぶ物が多いけど、入り口のすぐ上に掲げられたテレビのスライドショーが気になりました。
「ポツダム宣言を受託」えっ❗?「受託」❓そんなもの受託しちゃいかんだろう❗まるで米英ソの手先になったみたいだ。もし本当に受託したのなら「國體の護持を認める」とでも書けば良かった。
展示室にはちゃんと「受諾」になってたけど、敢えて「じゅたく」とルビが振ってある


なんかおかしい。昭和63年の開館以来関係者は真剣に見た事がないのだろうか?

車での旅3:福知山城

 鳥取で一泊した後、福知山経由で舞鶴へ

福知山城の石垣には墓石ではないかと思われる石が使われている。安土城へ行くと天守へ向かう道の側溝の石にお地蔵さんが使われていて驚くが、信長のそうした迷信を嫌う姿勢を光秀が見習ったのか、忠誠の証として追随したのか。それにしても城に立てられた「麒麟のいる町」という幟にはがっかりした。大河ドラマにそこまで阿る必要はないのに。


車での旅2:鳥取城

 鳥取城は32万石に相応しい石垣だった。



車での旅1:鳥取

 出雲から埼玉に帰るのにあちこち寄り道をしながら帰ってみようと思った。

まずは鳥取へ立ち寄り。前から鳥取城を見てみたいと思ってたから。

ナビで鳥取市役所を設定して出発したけど、ナビが連れて来た場所に市役所はない。聞けばかなり遠くに移転したとか。古いナビだから仕方ないかなあ。市役所跡地には県民文化会館が建っていて、そこで日替わりランチ税込550円也を頂くことにした。写真にアフターコーヒー付き。スタバならぬスナバコーヒーだ。


2021年12月7日火曜日

マン・マシン・インターフェース

 長ったらしい表題を直訳すれば「人と機械の境界面」、意訳すれば「機械の使い勝手」とでもなろうか。パソコンが出始めた頃良く聞いた。機械がいくら優秀でも、それを人間が使う際にうまく扱えないようでは使い物にならない。マニュアルなしでも使い方が直感的に分かって、しかも誤操作は未然に防止されるべし。パソコンの黎明期、多くに人が使い方に四苦八苦している時に、アップルが誰にでもすぐに使えるパソコンを世に出して、盛んに訴えた事だった。

今、自動車のアップル版を待望する。それは連日のように高齢ドライバーによる事故が報道されるからだ。曰く「ブレーキとアクセルの踏み間違いが原因だ」と。これ程毎度踏み間違いが起きるのにそれが一向に改善される事なく、とにかく高齢者には運転させないようにしようという世論だけが大きくなるのは如何なものか。高齢者だって必要に迫られて運転している訳で、伊達や酔狂で運転している訳ではない。社会全体の最適解は、踏み間違いが起きないような構造に、自動車のマン・マシン・インターフェースを改善する事ではないか。

ちょっとしたミスが大事故につながるという点では、火薬とマッチを同じ場所に大量に保管するようなもので、こうした事が長い間放置された事自体本来許されない。アメリカに行って最初に左ハンドルの車を運転した時に誰もが犯すミスは、右折しようとレバーを倒したらワイパーが作動したなんて事だが、この程度の間違いなら罪がない。慣れの問題からインターフェースの改変には躊躇する向きもあろうかと思う。しかしHV車では左程必然性があるとは思えないのにギアチェンジのやり方を大きく変えたではないか。

人命に関わる事だ。改善を切に願うものである。近いうち自分が免許を剥奪されないためにも。