2023年1月3日火曜日

東海道の不思議


 BS-TBSの「関口宏の中世史」を見ていて源頼朝が奥州藤原氏を攻める時「東海道軍、中央軍、北陸道軍」の三つに分かれて進軍したと知った。えっ!?鎌倉から北へ東海道?!

三つの軍の名前は番組担当者が勝手につけたものではなく、吾妻鑑にそう書いてあるのだろう。つまり吾妻鑑を書いた人は鎌倉から東北に向かうそのルートを「東海道」と認識していたという事だ。



東海道とはどこからどこまでと言うのだろう?江戸時代の東海道五十三次は日本橋から京都の三条大橋までを言ったと記憶するが、鎌倉時代の江戸は荒れ地の未開地であったろうからそこが終点になるなんて事はなかったろう。

今の千葉県を構成する上総と下総の位置関係を見ると、上総の方が南にあるから、京都から来た時、上総に先ず来て、その後に下総へ行った事になる。つまり東京湾の東側こそメインの通りで西側は普通は通らなかったのだ。家康が開拓するまで江戸の地は湿地でまともに通行も出来なかったのではないか?

百科事典で「東海道」を引いてみると次のような説明がある。

「東海道:五畿七道の一つ。伊賀、伊勢、志摩、尾張、三河、遠江、駿河、甲斐、伊豆、相模、安房、上総、下総、常陸の14カ国を言う。後に武蔵が加えられた」

頼朝が平泉へ向かった時も東海道軍は三浦半島から海を渡って房総半島へ上陸し、安房、上総、下総、常陸と通って行ったに違いない。だから番組で紹介された図の線はもう少し右にずらして描かないといけなかった。

そしてまた改めて確認すべきは東海道とは元々、道ではなく、国の集合、地域の名前だった事だ。

そりゃそうだ、例えば北海道なんて道はない。北海道は地域の名前だ。

これは古代において朝鮮からの輸入の名残と思われる。朝鮮八道と言われる、慶尚道、全羅道、等々それらは道ではなく、地域を表している。それが日本ではいつの間にか道沿いに国を管理するようになって、地域の名前と道の名前が混同されるようになった。面白い変化ではないか。

因みに「東海」の言葉からは静岡や神奈川の海辺を思い浮かべるがそれも誤解のようだ。

啄木は「東海の小島の磯の白砂に 我泣きぬれて蟹とたわむる」とうたった。

その海辺は決して静岡や神奈川ではない。彼の生まれ故郷岩手の海辺なのだ。「東海新報」という新聞は本社を大船渡に置いている。

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