2023年5月30日火曜日

連帯責任

ある人がなした犯罪に対して、その人の家族や職場など周辺の人達はどこまで連帯責任を負うべきなのだろう。本人が中学生以下の子供であった場合には、その教育責任の意味で親が責められるのは仕方ないとしても、三十も過ぎた立派な独立した大人が犯した罪にまで家族や職場の責任を問うのは行き過ぎのような気もする。

中学の教諭が殺人の疑いで逮捕された事件では学校の校長が謝罪の会見を開いた。教諭の犯罪が学校の業務に関連した事なら兎も角、職場を離れたプライベートな事件に関してまでそれを防げなかった組織の監督責任を問うのは、互いに干渉し合う監視社会を推奨しているかのようで気持ち悪い。

最近起きた猟銃立てこもり事件では犯人の父親が市議会の議長である事が強調され、父親は議員辞職した。あれだけの凶悪事件だから心情的には当然とも思うが、論理的に考えれば父親の進退は職務遂行上の可否・適不適によってのみ決定されるべきものだろう。

この事件において父親が議長であった事は偶然たまたまそうであったというだけで、議長という立場を利用して犯罪が行われた訳でも何でもない。その一方で、父親が総理大臣である立場を利用して私的に公邸を利用した息子がいる。犯罪の軽重を他人に与えた迷惑の大小で測るなら目くじらを立てる程ではないかも知れないが、職務遂行上の倫理観に照らし合わせると大変に破廉恥な事件である。公私の区別が出来ない人は公務につく資格がない。公設秘書という立派な公職についている息子の目に余る乱行に連帯責任を感じない鈍感な父親の顔が見たい。

鈍感な親がいるかと思えば、親が犯した罪に一生苦しむ子供もいる。和歌山毒カレー事件では犯人の子が自ら命を絶った。せめて子供は連帯責任から解放してあげたい。

2023年5月23日火曜日

闇バイト

 白昼堂々、衆目の集まる中、店の陳列棚のガラスを割って中にある高価な商品を強奪する様には言葉を失った。ニュースが即座に「闇バイトの仕業」と報じたのは、誰かに命令でもされない限りこんな事をする筈がないとの思いがあったからだろう。

少し前には強盗に入った住宅で高齢女性を殺害するという闇バイト事件があったが、人は自分のためならともかく他人に指示乃至命令されて悪事を働けるものなのだろうか。悪事というものは自分のため已むに已まれぬ事情があるとか、家族のため又は自分が所属する組織のためを考え、その悪事の悪さ加減と悪事がもたらす便益とのバランスを考えて納得できなければ踏み切れるものではないと思っていた。しかし闇バイトの若者達は他人のために、どう考えても割の合わない悪事をしでかした。

彼等の背後にあったのは恐怖だった。人が悪事に手を染める時、一番強い動機となるのは恐怖なのだろう。そこでは既に合理的な判断をする余裕がなくなっている。人に何かをさせる時、イソップ童話は北風より太陽の方が有力だと説いた。それをする事のメリットを分からせて自発的に行動する方向に動機付けした方が効果的との事だが、それは何か良い事をさせる時にしか通用しない理論で、悪事をさせるためには北風を強力に吹かせるしかないようだ。

悪事の最たるものは人殺しで、その悪事を命令して行わせるのが戦争だ。誰も人を殺したりしたくない。しかもその人殺しは何一つ自分のためにならない。そんな事を敢えてしなければならないのが戦争だ。闇バイトの究極が戦争だと言えるのではないか。最近テレビで見るロシアのショイグ国防相の顔が何か沈んでいるように見える。闇バイトから抜け出したいと言っているようにも見えるがどうだろうか。

2023年5月16日火曜日

犯罪報道

 中学校の教諭が殺人の疑いで逮捕された。野球部の指導をしたこともあり、生徒思いで熱心な先生だったとの評判もある。本人が否認と黙秘を続ける中、犯人である事が確定したかのような報道にいくばくかの疑問を感じる。

事件は今年2月に起きたもので、3か月に渡る慎重な捜査の結果としての逮捕だろうからまさか間違いはあるまいが、それでも全容が明らかになるまでは推定無罪の原則を貫くのが文明国としての矜持ではないだろうか。偽装工作という言葉自体、彼が真犯人であるという事を前提としており、もし違っていたらどうするのか。様々な偽装工作をした人が靴だけは無造作に足跡を残したのも不思議ではある。

報道では警察は動機の解明に注力しているとされるが、それよりもまず事実関係としての真相究明を第一に優先すべきだろう。防犯カメラに写っていた人影は犯人のものに間違いないのか、そしてそれは彼のものに間違いないか、アリバイ工作のためのタイムレコーダーはいつ誰が押したものなのか、現場に残されたマスクに付着した血痕の鑑定結果はどうかなど、当然調べはついている筈だが、全く報道されない。犯人とされる教諭が数百万円の借金を抱えていた、などは動機を補完するものとしての意味はあっても、犯行の事実解明とは直接の関係はない、言わずもがなの事ではないか。

まだ有罪と決まったわけではない人が実名のみならずそのプライバシーまで洗いざらいされるのに対して、はっきり自分で犯行を認めた人の実名が報道されない。名古屋の県立高校の教諭が女子高校生にみだらな行為をしたとして懲戒免職処分になったケースでは本人が「18歳未満とは知らなかった」と事実を認めているのに、実名は報道されない。犯行が殺人に比べて軽微だからだとでも言うのか。

2023年5月9日火曜日

京都で二泊

5月5日に出雲を出て自動車で埼玉へ戻りました。途中、5日、6日と京都は大原三千院の近くの知り合いのお家に二泊させて貰いました。京都南のインターを降りて、川端通りを北上するつもりが、ナビは東大路通りを指示。東福寺、智積院、八坂神社など観光名所ばかりの道で、混雑必至だけど、自力で道を変える勇気がなくてナビに従いましたが、途中祭りに出会った。それを見せるためにナビがこの道を指示したのかな?


6日は京都市内を散策。途中小さな石碑に出会った。「皇太子慶頼王墓」とある。慶頼王なんて聞いた事ないなあ。ひょっとして李氏朝鮮の皇太子かなんかではないかと思いつつ矢印の示す方向に歩いて行くと細い路地の先にこんもりした何かが見える。入ってみると鳥居があって陵墓らしきものがある。慶頼王とは嵯峨天皇の皇太子らしい。嵯峨天皇って桓武天皇の息子で、兄貴の平城天皇が都を奈良に戻そうとしたのを阻止した人だ。そんなこんなでその息子のお墓を整備したのかなあ・・・

あれ?!いかん!嵯峨天皇じゃなくて醍醐天皇だった。醍醐天皇は菅原道真を大宰府に左遷した人だ。その人の皇太子はなぜこんな形で埋葬されているのか?わからん!!!




吉田兼好ゆかりの吉田神社へは初めてお参りしました。裏手の吉田山(紅燃ゆる、の三高寮歌の碑や変な形をした松がありました)に良い喫茶店があるというので行ってみた。名前は「茂庵」。古い建物の二階からは京都市内が一望できる。カメラは逆光で何も見えないけどね。京都市内がどう見えるかは、行って自分の眼で見てください。







昼食は木屋町の豆腐料理専門店でちょっと贅沢。鴨川を見下ろしながらのビールは最高だった!!





7日の日曜はあいにくの雨。昼近くなのに三千院に来る人はまばら。連休最後の日曜だと言うのに・・・・・(お陰で帰りの高速道路は空いてて良かったけどね)
赤い橋の欄干と緑の葉が良く合う。橋の名前は見る方向によって違うけど、どうして???
紅葉が花をつけていた。







女性棋士

 出雲の稲妻、里見女流五冠がNHK将棋トーナメントの一回戦を突破した。テレビで観戦して、勝利が決まった瞬間には思わず拍手した。相手の船江恒平六段は加古川清流戦での優勝経験もある関西の強豪で簡単に勝てる相手ではない。そんな相手に臆することなく冷静な指し回しで攻めをかわし最後は寄せ切った。勝利後のインタビューで里見さんは「意外と(自玉が)寄らなかったのが幸運でした」と謙虚な弁を述べていたが、きっと詰まないのを読み切っていたに違いない。

3月末に行われた女子枠の決定戦の勝利も見事だった。この時の相手は里見さんと女流棋士の中で双璧をなす西山女流三冠。始まる前、対戦する二人を紹介する際にアナウンサーは「50戦戦って対戦成績はほぼ互角」と言った。男性棋士の対戦なら必ず何勝何敗か明言するのにと思いネットで調べたら里見さんのの26勝24敗だった。はっきり数字を言わないのは女性蔑視ではないのかと、ちょっとすねて見たが考え過ぎか。

こんなに強い里見さんなのに、プロ棋士編入試験の結果は残念だった。緊張のあまり実力が出し切れなかったのだろうか。合格すれば女性初のプロ棋士誕生という快挙だったのになんとも残念だった。

囲碁の世界では上野さん、藤沢さんなど男性棋士に交じって互角に近い成績を残している女性が出てきた。囲碁の方がより女性に親和性が高いのか。そういえば源氏物語絵巻などに女性が囲碁を打つ姿は描かれているが、女性が将棋を指す図は見たことがない。囲碁の場合双方が穏やかな手を打ち合って、特に大きな戦いもないまま一局を終わる事も可能だが、将棋は必ず戦いになる宿命にある。そんな事も関係しているかも知れない。

さて、里見さんの次の相手は久保九段。それに勝てば次はおそらく藤井聡太が待っている。頑張れ、里見さん。


2023年5月2日火曜日

官主主義

表題の言葉は私の造語で、そんな言葉はこの世に存在しないのだが、それでもちょっと首を傾げたくなるような事例に出くわす事がある。

先日和歌山で応援演説をしている岸田首相に爆弾が投げ込まれる事件が起きた。幸い怪我人は一人も出なかったが、そのニュースの中で気になる文章があった。それは「SPが爆発物を聴衆側に蹴りだした。」というもの。その記事では「SPは首相を守るのが彼らの役割で爆発物の処理ではない。」としてやむを得ない処置だったとの評価だったが、本当にそれで良いのだろうか。もし多くの群衆が集まる中で爆発が起きていたら、多数の被害者が出る羽目になっただろう。それは首相一人を守る代償として許される事なのか。

民主主義とは少なくとも字面では「民」が「主」であると言っている。一人の公人を守るために多くの民が犠牲になる事は民主主義の主旨に反するのではないだろうか。ではSPはどうすれば良かったか。まずあたりを見渡して人影がまばらな場所があればそちらに爆発物を蹴りだす事。360度どこにもそんな場所がなければ自らが爆発物の上に覆いかぶさって他に累が及ばないようにすべきだったのではないか。それ位の覚悟を見せれば心底からの賞賛を受けたであろうに。

スーダンからの退避についても官主主義の匂いを感じた。幸い国外脱出を希望する全員の退避が実現できたようだが、当初は大使館員とその家族が優先されるかのような報道があった。それを聞いて第二次大戦末期、開拓民を置きっ放しにして真っ先に満州から逃げた軍人、沖縄では民衆に向かって「我々の盾となれ」と言い放った軍人がいた事を思い出した。国防と言う大事な仕事をしている我々を守るのは当然だとの論旨だったとか。まさに官主主義の発想だった。