2026年3月31日火曜日

映画と小説

 最近あまり映画を観なくなった。かつてはレンタルビデオを借りてまで観たものだが、今では有料チャンネルを契約していながら視たいと思う作品に出会わない。観ていても、どうせ作り物だろう、誰かが頭の中でこねくり回しただけの話だろう、等と言う思いがよぎって身が入らない。どうせ観るなら実際に起きた事件を扱ったドキュメンタリーの方が自分の知識を補完する事にもなるし、誰かと議論する時にも役に立つ。

本も同じで、小説を読んでいて「なんでこんな本を読んでいるのだろう」と思う事が時々ある。状況設定が映画程極端ではないから、ある意味人生の疑似体験という面もあるのだろうが、それでも所詮一人の人間が考えた事に過ぎなくて、やはり実際に生身の人間が命を懸けた事件を記録した歴史物やノンフィクションの方に興味を惹かれる。

そして、小説を読んでいてもそれをドキュメンタリー風に読んでいる自分を発見した。有吉佐和子の「恍惚の人」を読んでいる時、次のような記述に出くわしたのだ。「近頃は年末助け合い運動だって、古着より現金の方が喜ばれるのだ」えっ!この表現の意味する所は、かつては現金より古着の方が喜ばれたという事だ。そんな事があったのか!この本が出版されたのは昭和47年だが舞台設定は戦後間もない頃になっている。物資が不足する中、現金があっても物がなく、寒さをしのぐ古着は重宝されたのか。医療保険制度が整わない当時、嫁が舅の保険を心配したりもする。

映画「めし」でも同じ様な事を感じた。昭和26年の映画。原節子と夫婦役の上原謙が買ったばかりの靴を盗まれる。今時玄関にある靴を盗む奴なんていないだろうが。原節子の同窓会の会費が100円だというのも当時の世相か。映画の中でも流石に「安いわね」と言ってるが。

2026年3月24日火曜日

ファースト・ネーム

 「刑事フォイル」という連続テレビ・ドラマがある。ロンドン郊外の小さな町、ヘイスティングスの警視正であるフォイルが事件を解決して行く。原題は直訳すると「フォイルの戦争」で物語の舞台は第二次大戦の最中に設定してある。

ある時、町に米軍がやってくる。同じ連合国で友軍の到来だが、その駐留は町の人には歓迎されず、中には妨害行為に及ぶ人すらいたりする。そうした当時の様子を伺い知る事が出来るのもこのドラマの魅力の一つだ。その米軍の中にイタリア系の名を持つお調子者の若い兵士がいて、彼は警視正付きの運転手サマンサ・スチュアートと恋仲になる。彼女はサマンサを略して通称サムと呼ばれている。

何度かデートを重ねた(そんな余裕があった事にも驚く)二人だが、ある日彼は自分のサムへの思いを警視正に打ち明け、理解を求めようとする。「サムと結婚して一緒にアメリカに帰りたい」と日本語の字幕には表記されるが、原語の科白は「ミス・スチュアートと・・」と言っている。ああ、こういうかしこまった場面ではお調子者のイタリア系でもかしこまった言い方をするのだなぁ、と思った。

さて、今回の日米会談で高市首相は「世界の平和と繁栄をもたらせるのはドナルドだけ」と言った。お互いをファースト・ネームで呼び合って親密さをアピールするのは結構な事だが、世界平和などという厳粛な話題でファースト・ネームを出すのはいささか場違いで敬意を欠くのではないのだろうか。

そう言えばかつてマリリン・モンローがケネディ大統領の誕生パーティの舞台で歌った時は「ハッピー・バースディ・ミスター・プレジデント」だった。恐らく肌を合わせた事のある二人、日頃はファースト・ネームで呼び合っていたに違いないが。

2026年3月17日火曜日

アメリカ

 トランプを大統領に選んだ頃からアメリカがちょっとおかしいのではないだろうか。トランプ個人の問題は別にしても、周りの人達が全て彼のイエスマンに成り下がり、彼に意見・諫言する人がいないのはおかしい。国務長官のマルコ・ルビオなど、かつてトランプと共和党の大統領候補の座を争ったのだから、彼なりの考えや主張があって然るべきだと思うのだが、彼が世界各地を飛び回っている姿はまるでトランプのメッセンジャー・ボーイになってしまったかのようだ。

トランプが既にある駅や空港の名前を自分の名前に変えろ、と言っても誰も表立って反対しないし、今回のイラン侵攻にしても誰も反対する人はいなかったのだろうか。

そのイランではAIが標的の識別などに利用されているらしい。AIの利用を巡っても、耳を疑うような事態が起きている。それは一民間企業と国家の倫理が逆転しているように思えるからだ。

普通なら民間企業が利益追求のあまり、倫理に抵触しそうな行動を取るのに対して、国家がより高い倫理的観点からその行動を制限するのが当り前だと思うのだが、今アメリカでは全く逆の事が起きている。

アメリカの国防総省がAI開発企業各社対してに全ての技術を利用させろと求めたのに対して、唯一アンソロピック社は「国民の監視目的には利用しない、人間が介在しない完全自律型兵器には利用しない」という条件を付けたというのだ。同社は「良心に従えば(国防総省の)要求を受け入れる事はできない」と宣言し、トランプの怒りを買い、同国政府との取引を禁止された。

国からの要求に屈したオープンAIからユーザーが離れたのに対し、アンソロピック社のAIツールは逆に利用者が増えているらしい。アメリカの草莽には良心が残っていそうなのがせめてもの救いだ。

 

2026年3月10日火曜日

AIの力

桜花爛漫時(おうか爛漫

背負小学包(小学背負い

自覚身軀長(自ら覚る身軀の長ぜるを

相凌較短長(相凌ぎて短長を較らぶ

桜の花が、いままさに咲き誇る時

ランドセルを背負って 

自分の背が伸びたことを感じる

友達と背の高さを比べ合っている

 

もうすぐこんな季節になる。杜甫や李白の頃にランドセルがあったかどうか知らないが。

つい最近「出雲弁ソング」なるものの存在を知った。。友人からの紹介で知った「あいけ!出雲シャンゼリゼ通り」という歌には驚いた。ギターやアコーディオンが奏でる軽快なシャンソンのリズムに乗せて、出雲で良くあるご婦人方の茶飲み話の様子が歌われる。背景の写真は、遠く凱旋門を望む通りのカフェでフランス人のご高齢の二人のご婦人がコーヒーと会話を楽しむ様子で、歌詞とのギャップが笑いを誘う。

ただ、その歌詞を良く聞くと、語彙は確かに出雲弁だが、発音に出雲弁独特の訛りがない。それもその筈、なんと歌っているのはAIだ、というのだ。しかも曲を作ったのもAIだとの事で、AIにこの曲を作らせたのは出雲在住の高橋章さんという方だ。その高橋さんについ最近、直江の居酒屋でバッタリお会いした。「出雲弁ソング」を知ってから十日も経たないでの邂逅、何か運命的なものを感じてしまった。

実はそのちょっと前、AIはここまでやるか、という事例を知って驚いた事がある。AIを教育に活かせないかを考えているある学者の紹介した例で、「小学生レベルの、春と桜を読む俳句を出力しAIに命じたら

「さくらさく ランドセルしょって せいくらべ」

という句を返したのだそうだ。それで驚いてはいけない。それを英語に直したり、極めつけが冒頭に示した五言絶句の漢詩でこれも実はそのAIが作ったものなのだ。AIの力恐るべし。

2026年3月3日火曜日

行政権

 ヤクザ映画で実力のないチンピラが何かと言うと振り回すドスのように、トランプ大統領が何かと言うと振り回す関税。丁度一年前の225日のこのコラム(905)で「関税について詳しくは知らないのだが、トランプ大統領が勝手に決めているように行政の専権事項として設定の出来るものなのだろうか。」と疑問を呈したが、今頃になってようやくアメリカの最高位裁判所はトランプ関税が違法であるとの判決を出した。

学校で習ったのは、民主主義の基本は三権分立で、中でも最高の意思決定機関は国民の代表である国会・立法権であるという事だった。大統領や首相がトップを務める行政権は立法府が定めたルールの範囲内で、自らの判断で実際の政治を執り行う。そこには一定の裁量の余地があるとは言え、国会で決められたルールを逸脱してはいけないし、何か重要な事を行う場合には国会の了解を取らないといけない。

そこで思うのは、アメリカがベネズエラに侵攻したのは国会の承認が得られていたのだろうか、という疑問である。そんな事をしていたら相手に感づかれて、せっかくの計画が台無しになってしまうから、恐らくはしてないのだろう。それは違法ではないのか?

どこの国でも戦争を始める時は国会の承認が必要な筈だ。日本人を初め黄色人種が大嫌いだったルーズベルト大統領は、日本をやっつけたくて仕方なかったが、国会の承認が得られないため日本に戦争を仕掛ける事が出来なかった。だから真珠湾攻撃が行われた時は「やっとこれで(議会の承認が得られ)参戦できる」と大喜びしたという話がある。

このように国会の承認なしに他国に軍隊を差し向ける事は出来ない筈なのに、イランでもトランプ大統領は軍事攻撃をちらつかせ、ついに始めてしまった。アメリカ国民は何故黙っているのだろう。

2026年2月24日火曜日

音の識別

 りくりゅうペアの逆転での金メダルには心から拍手を送った。日頃の鍛錬からくる自信とそれでも天狗にならない謙虚さとの相乗効果がもたらした成果と推察する。

この競技の中でスロー・ジャンプという技があるのを知った。音を聴いた瞬間slowと早とちりして、あの眼にも止まらぬ速さで何回転したかも分からぬジャンプをゆっくりやるなんて凄い事が本当に出来るか半信半疑だったが、throwだと知って納得した。日本人にとって苦手なsとth、lとrの二種類も紛らわしい音があるから仕方ないか。

所でフランス人は「い」と「ひ」と「き」の区別が出来ない事を御存知か。あるフランス人に荒城の月の歌詞を教えた時の事だ。「春高楼の花の宴」とゆっくり発音すると、彼のメモは「Alukolono Ananoen」だった。フランス人にはhの音が聞こえないから仕方ないが「昔の光今いずこ」が「Mukasino Ikali」となるに及んで「光」が「怒り」になってはいかんだろうと、「『い』じゃなくて『ひ』だよ」と殊更「ひ」を強調すると、彼は「分かった分かった」というような顔をして「Kikali」と書き直した。

音を識別する脳の仕組みは子供の頃に作られ、大人になって修正するのは至難の技らしい。朝鮮語の二つの「か」の識別はsとth以上に難しかった。一つは普通の「ka」、もう一つは「kka」とでも表記すべきか(実際ハングルではそのような表記になっている)これが何度聞いても同じに聞こえる。韓国人同志だと当然ながら百発百中で区別する。彼等にはむしろ普通の「ka」は「ga」との区別がつかないみたいだから不思議だ。「ぷ」にも「pu」と「ppu」があるが釜山(プサン)の英語表記は「busan」なのだから。

2026年2月17日火曜日

小選挙区制

 小沢一郎さんは今どんな思いでいらっしゃるのだろう。

二大政党制を目指して、小選挙区制導入という選挙制度改革は彼の悲願だったはずだ。そして彼の願い通り小選挙区制が取り入れられたが、二大政党制になるどころか、政界はどんどん一強多弱の傾向を強めて行く。小選挙区制は、ほんのわずかでも他より強い政党に圧倒的に有利な制度で、本当にこの制度の導入は良い事だったのだろうか。

今回の選挙で自民党は小選挙区で289議席中269議席、つまり86%の議席を取ったが、小選挙区で自民党に投じられた票は率にして49%と半数に満たない。逆に小選挙区で21%の票を取った中道改革連合の議席数は7議席つまり2%程度にしかならなかった。

小選挙区にすればこうした偏りが出る事は百も承知だったであろう。2009年の選挙では民主党が僅かの差で小選挙区の議席を席巻した。米英の例を見ても、比較第一党と第二党の差が拮抗していれば小選挙区制も適切に機能するのだろうが、その差が一定以上開いていると民意を反映しない制度になってしまうのではないか。今後議員定数の削減に伴い比例区の数が減ると一層その傾向が強くなる。

2009年、民主党政権が生まれ、二大政党制に一歩近づいたかと思った時にどうして小沢さんはそれを育てるために一所懸命にならなかったのだろう。私の印象では当時党首の鳩山さんが慣れない政権運営で右往左往するのに、幹事長だった海千山千の小沢さんは知らん顔をしているように見えた。あの時もっとしっかり縁の下を支えていれば彼の夢が実現したのではないかと思うのに。今回落選して、彼は昔日の夢をどう振り返っているのだろうか。

(来週は火曜日が休刊日となるため、25日(水)の掲載となります。よろしくお願いします。)

2026年2月10日火曜日

右か左か

 この原稿を書いている時点では大手メディアが自民党の圧勝を予想している今回の総選挙だが、原稿が掲載される頃には結果が判明してる事だろう。

高市首相の右寄りの姿勢が支持され、右寄りの主張を繰り返す参政党の躍進も予測されて、日本全体の右傾化傾向が指摘される。かつて左翼の代表と言えば社会党や共産党だったが、そのいずれもが大苦戦している。各政党の獲得予想議席の分布図を見ると、日本から左はいなくなってしまうのだろうか、と思われるような勢力分布だ。その是非はともかく、右とか左とか一体何かについて考えてみたい。

一般的イメージでは右は保守、左は革新、右は資本主義、左は社会主義、右は政権側、左は野党側、というような感じだろうか。その流れで行くと、中国では共産党が政権を取っていて、その体制を守ろうと保守的行動を取り、改革を目指す若者を取締ったりしているのを見ると、そこでは共産党が右翼だか左翼だか良く分からなくなってしまう。

歴史的にはフランス革命当時の国民議会で議長席から見て右側に伝統や宗教を重んじ急進的な改革に反対する集団が座り、左側に平等や自由を重んじ急進的改革を支持する集団が座った事から来ているそうだ。しかし、今まで出会った解釈の中で一番分かり易いと私が思うのは以下の区分である。

世の中を縦に割って、内側と外側に分けた時、内側の価値を守ろうとするのが右翼、世の中を横に割って、富裕層と貧困層に分けた時、貧困層の味方をするのが左翼だ、というのである。この考え方だと右翼と左翼は対立概念ではなく、両者が必ずしも反対語にはならない。そして色んな事を旨く説明できるのだが、ただ普段右翼的な発言を繰り返す人達がアメリカに媚びを売る高市さんを高く評価する事が説明できない。

2026年2月3日火曜日

異文化(続き)

「ソ」と「ン」の見分け方など考えた事もなかったので、その質問を受けた時は大変狼狽した。「シ」と「ツ」なら3本の線の頭が揃っているのが左か上かで判断できる。稀に第二画まで「ツ」のように書きながら、最後の第三画を下から跳ね上げて「シ」を書いた積りの人を見るが、あれは大変恥ずかしい事だ。小学校では「ソ」は第二画を上から書下ろし、「ン」は下から跳ね上げる、という教え方をするらしい。しかし活字特にゴシック体などではその区別は難しい。結局、どちらかといえば「リ」近いのが「ソ」で「ニ」に近いのが「ン」だ、最後は周りの雰囲気で判断するしかない、と答えるしかなかった。ある所で戦前の看板の写真を見て、そこに書かれている文字を最初は「ソバ」と読んだ。しかし他の文字が全て右から書かれているのを見て実はそれが「パン」であると知った。

「っ」に関して小学校では「詰まった感じを出す」という教え方をするらしい。日本の子供ならそれで理解できるだろうが、外国人に「詰まった感じ」と言っても恐らくチンプンカンプンであろう。私は相手がドイツ人だった事もあって「ich」を例に「イッヒ」と「イヒ」の違いだよ、と説明したが彼はポカンとしたままだった。恐らく両者の違いが聞き分けられないのだろう。「ヒットラー」と「ヒトラー」が同じに聞こえるように。

日本の小学生で「ソ」と「ン」の違いに悩んだり、「っ」の意味が分からなくて落ちこぼれた子がいるなんて聞いた事がない。それ程当り前の事が、異文化で育った外国人だと人並み以上の知性を持った人が理解に苦しんでいる。当然逆の事もあって彼等に当り前の事を我々が理解しないのを歯がゆく思っている事もあるだろう。

そういう理解の溝を不愉快に思うのか、寛容に受け入れ楽しむか、私は後者でいたいのだ。


2026年1月27日火曜日

異文化

 今回は少し気分を変えて頭の体操を。

生れ育った環境や文化が違うと、思いも寄らぬ疑問を持つものらしい。外国人から聞かれた質問に、皆様も頭を悩ませて頭の体操をしてみて欲しい。

私はアメリカに住んでいる頃「日本語を教えてあげるから友達になろうよ」と言ってなった友達から受けた質問に愕然とした。「カタカナの『ソ』と『ン』の見分け方を教えてくれ」と「小さい『っ』の意味を教えてくれ」である。皆様ならどう答えるだろうか。「なしてそぎゃん事が分からんかい!」と突っぱねてしまっては異文化交流が出来ない。

先日会社のOBと飲んでいたら、ある先輩が仕事の関係でエジプト人を連れて国内を案内している時「日本には川が何本ありますか」と聞かれたそうだ。さあ、これは難問だ。そもそも川の1本とは何だろう。渡良瀬川とか千曲川とか立派な名前を持っているがいずれ利根川や信濃川に合流し、一本の川となって海に注ぐものがある。森の中の木の本数を数える時には、大地から頭を出している幹の本数を数えるのであって、枝までは数えない。だから川の本数とは海もしくは湖に注ぐ河口の数である、と定義して良さそうだ。

そう思ってエジプトの地図を見ると、スエズ運河を除くと海に注ぐ河口は二つしかない。しかもそれはナイル川が途中で別れたものだ。成程このような環境で育った人なら川の本数を数えてみようという気になるものなのか。日本はどうかと言えば、宍道湖に注ぐ河口だけで27個もあった。これに日本海側のものを想定して、それに県の数を掛けてとすれば概算は出るのだろうが、その数に意味があるとも思えない。

価値観を越えて交流する事は屹度互いの幸福につながる。外国人排斥の動きが目立つ昨今だが、私は互いに寛容を忘れないようにしたいのだ。

2026年1月20日火曜日

国際法

 「世界は弱肉強食、万国公法(国際法)も大国に利あらば守られるが、大国に不利となれば武力に頼られる。私はこの状態に憤慨し、国力を強くし、大国と対等に外交しようと考えた。」

この言葉は誰のものでしょう。答えはドイツの鉄血宰相ビスマルク。1872年明治の遣欧使節団を前に演説した時のものだそうだ。当時ドイツは普仏戦争に勝利し、ようやく国内を統一した頃だ。これを聞いた岩倉や大久保は富国強兵の重要性を痛感し、西郷の征韓論は時期尚早だと大反対する事になる。

あれから150年以上の時が流れ、何度かの大戦争を経て、人間もいくらか賢くなって法の支配の重要性とかを身に沁みて思うようになったかと思っていたが、実態は何も変わっていないらしい。アメリカの大統領は「国際法なんてクソ食らえ」と公言して憚らないし、アメリカの経済制裁による物価高と外国からの干渉に苦しむイランは「直接的・間接的ないかなる攻撃にも断固とした相応の合法的対応をとる。すべての結果に対する責任は非合法的な行為を主導した者にある。外部勢力につながるテロリストが流入したことで平和的なデモが暴動に変わった。」となんとか法にすがり付こうとする。

麻薬を巡る動きにしても、アメリカはベネズエラ近郊まで出掛けて行って麻薬船と思われる小舟を攻撃し、乗組員共々海の藻屑にして威張っているが、あの船はベネズエラを出たばかりで行き先がアメリカと決まった訳ではないのではないか。150年以上前、イギリスが持ち込む麻薬(アヘン)に苦しんだ中国(当時は清)は、麻薬が自国の港に陸揚げされる瞬間を捕らえて、それを没収し廃棄した。どちらが理に適った行動か。実際には理に適った行動を取った筈の側が、戦争に負け、賠償金まで払わされている。

ああ、国際法よ。

2026年1月13日火曜日

人類滅亡

この世界は一体どうなるのだろう?

道理に合わない事でも、力のある者が声高に怒鳴ればそれがまかり通ってしまう。アメリカのミネソタ州では一般女性が移民税関捜査局の職員に射殺され、それが正当防衛だとされた。放映された動画を見る限り、女性が殺されてもおかしくない程の乱暴をしたようには全く見えないし、地方政府は中央政府と異なる見解を持っているが、大統領府も副大統領も臆面もなく正当防衛を主張する。

他国への内政干渉は国際政治においてご法度の筈なのに、他国の軍隊が堂々と領空を侵犯し、あろうことかその国の大統領を拉致・監禁してしまう。しかもそれを堂々と批判するのはロシア・中国と言ったこちらも力の信奉者と思われる国だけだ。アメリカは他国の政府を転覆させる事を屁とも思っていないらしく、1953年のイランのクーデター、1973年のチリのクーデターなどCIAの関与が公然と語られている。当時の岸首相退陣の原因となった60年安保のデモもアメリカの画策によるとの説もあるし、田中角栄のロッキード疑惑がアメリカの原作・演出のよるものであるのは明らかだ。

今またイランでは物価高に起因する民衆のデモが各地で起きている。裏でCIAが動いていないとも限らない。1953年を再現しようと言うのだろうか。パーレビ元国王の子孫が亡命先から新政権に意欲を示していると言うから笑ってしまう。

結局一定以上の武力を持たない限り、大国の言いなりになるしかないと言う事か。北朝鮮が核武装を急いだ気持ちが分かるような気がする。こうやって色んな国が核武装を目指し、果てはどこかのテロ集団までもが核を手にし、いつか世界中を巻き込んだ核戦争が起きるのではないか。

ある学者は2045年を人類滅亡の年と予測する。もし生きていたらその時私は93歳、人類滅亡の生き証人になるのだろうか。 

2026年1月6日火曜日

電子ピアノ

 あけましておめでとうございます。本年も当新聞当コラムをご愛顧頂きますようお願い申し上げます。

ところで、年末個人的にちょっとした課題解決に迫られた。約20年間愛用してきた電子ピアノの調子が悪くなり、買い替えの必要に迫られたのだ。

早速家電量販店を回ってカタログを集め、価格を比較し、実際に試弾して音や感触を確かめる。電子ピアノの一番の肝はなんといってもそのタッチで、鍵盤を押した時の感触が如何に本物のピアノと似ているかにあると思うが、最近の機種はどれも良く出来ていて、なかなか甲乙付けがたい。音も素人の耳には違いが殆ど分からない。それでいて、値段は安いのだと10万円を切るものもあるし、50万円以上のものもある。

困ってしまうのはカタログを見ても違いが分からない事だ。デジカメなら画素数であったり、撮像素子の大きさだったり、レンズの明るさだったり、値段の違いが合理的に判断できるが、電子ピアノはどれも良い事しか書いてない。これでは高い機種を買う理由がないではないか。値段の安い機種については「こういう難点がありますが、それが気にならない方にはお買い得です」等、その欠点も明記すべきではないか。

同じ事を国家予算についても思う。こういう所に重点配分しました、と予算が増えた項目は大いに語られるが、一方去年と比べて削った部分については何も語られない。そうしたマイナス面もはっきりさせて初めて政権の本気度が分かろうというものだ。

因みに機種選定の決め手になったのは椅子が付属していないという点だった。あるメーカーのその機種だけ椅子は別売りになります、という。既に椅子はあり、新たに来ても邪魔になるだけだ。ならば最初からない方が良いと、ピアノには大変失礼な判断になってしまった。