2019年12月3日火曜日

体育とスポーツ

先日民放の某テレビ番組を見ていたら竹中平蔵氏が例の「体育排斥、スポーツ歓迎論」をぶっていた。平素歯切れの良い論説で竹中氏には一目置いているが、これはいただけない。
氏曰く「体育は軍事教練の色彩があるが、スポーツは楽しんでやるものなのだ」と。確かにそうした側面もあるかも知れない。アメリカの小学校で運動会を見た時は驚いた。全員が揃って入場行進をする訳でもなく、まるで遊戯会のようにいつの間にか始まって、あちこちでバラバラに進行している。ある場所ではボールを籠目掛けて投げている子がいるかと思えば、別の場所では幅跳びをやっている子もいる。オリンピックの陸上競技はトラックで選手が走っている時にフィールドでは投擲競技が行われているという具合で複数の競技が同時進行するが、まさに運動会もその方式なのだ。一つの競技が全員が注視する中で行われる日本式が異端なのか。後日行われた日本人学校の運動会で全員が粛然と行進し整列し、演壇で校長が挨拶する姿を見ると学徒動員の壮行式を見る思いがした。
しかし「体育」に罪はない。学科としての体育は戦時中には「体練科」だった。漱石は「吾輩は猫である」の中で「昔のギリシャ人は非常に体育を重んじたもので」と書いている。ラグビーがイギリスのエリート校で流行したのもそれを通じて人格形成を行う教育面が重視されての事だろう。仮に戦時中の暗いイメージが付きまとうから体育という言葉をどうしても排除したいとしても安易に西洋の概念や言葉に頼るのでは情けない。運動や競技、どうしても楽しむ事を強調したいなら遊戯なんて言葉もある。
国民体育大会が国民スポーツ大会になってしまうと「国体」は「国スポ」になるのか?二流のスポーツ新聞みたいで、それだけは勘弁して欲しい。

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