2024年2月27日火曜日

一つになる

 「心を一つに」とか「ワン・チームで頑張ろう」とか、組織が一つになる事を推奨する言葉をよく耳にする。スポーツの対戦など限られた場面でなら兎も角、無暗に一つになる事を私はあまり好きではない。逆に、ナチスの党大会や北朝鮮のマスゲームなど一糸乱れぬ様子を見ると、嫌悪感が湧いてくる。どんな組織でも様々な意見や価値観が混在し、多様性がある事の方が健全だと思うからだ。

ロシアのプーチン大統領は今こそ国民が一つになる時だと思っているのだろう。そのためには自分に異を唱える人の命を奪う事すら厭わない。彼のやる事を見ていると、戦争を戦い抜くために国民が一つにならねばならないのではなく、国民を一つにするために、つまり自分の意見に従わせるために戦争をしているのではないかとさえ思えて来る。かつてチェチェン紛争の真相を究明しようとした女性ジャーナリストが射殺された事件など、まさに当時まだ無名のプーチン氏が売名のために紛争を起こしたような構図だった。

権力を持つ者が「心を一つに」と言い出したら注意した方が良い。「国体の本義を明徴にし人心の帰趨を一にするは刻下最大の要務なり。政府は崇高無比なる我が国体と相容れざる言説に対し直に断乎たる措置を取るべし」ナワリヌイ氏を断乎排除したロシアの言い分のようだが、実はこれは日本の衆議院での決議案の一文だ。今から約百年前の昭和十年、天皇機関説を糾弾するための決議案が満場一致で可決された。満場一致、まさに一つになったのだ。

組織が一つになるとは要するに団結して外の敵に対するという事だ。組織内での異なる意見を封殺し、寛容さを失っていく。寛容さを失った組織程怖いものはない。アメリカ大統領選挙で、トランプ氏の主張や支持者たちの不寛容さが気になって仕方ない。

2024年2月20日火曜日

コロナ

 初めてその事に言及したのは4年前、202024日の第648回だった。前の週の130日に友人との飲み会のため都心に出て、周りの人の殆どがマスクを着用しているのに驚いたのだった。それからピッタリ4年後の今年130日に遅まきながら私もコロナに感染してしまった。

昼間はテニスをする程元気だったが、夕食の頃から喉に違和感があったのでその日が発症だろう。翌日は喉の痛みに加えて鼻水も出たが、熱は左程でもないので一日大人しくしていたが、次の21日は体温が38度を越えてしまったので、かかりつけの医者に行き、そこでコロナ陽性を宣言された次第。

5日間は誰にも会うな、との医者の指示に従った部屋に閉じこもりの生活は人間の欲望について考えるきっかけになった。3食以外に何か欲しいものはないかとLINEで気遣ってくれる息子に最初に頼んだのは水だった。とにかく喉が渇く。おそらく渇きは飢え以上に生命維持の上で切実な欲求なのだと思う。二日目に辛抱できなくなったのが歯を磨きたいという欲求、下着は二日毎には替え、4日目頃にはお風呂に入りたくてたまらなくなったが、5日を過ぎるまでは許して貰えなかった。

総じて食欲は旺盛で味覚の異常もなかったが、不思議だったのは陰性がはっきりするまで閉じこもった12日間お酒を飲みたいという渇望が湧いて来なかった事だ。元気な時なら3日も空ければ我慢できなくなるのに。思うに酒を飲むのは一種の権利だとの錯覚があり、その権利を主張したかっただけなのか。酒への誤った執着を見直すきっかけを作ってくれた事がコロナ感染の一番の収穫だった。

(先週は火曜が休刊日になりこのコラムもお休みしました。手違いで事前のお知らせが出来なかった事をお詫びいたします。)

 

2024年2月6日火曜日

連座

 政治資金規正法を巡り、会計責任者が罪を犯した場合政治家にも連座制を適用すべきだと言うがどうか。いや、政治家の責任を問わないという事ではなく、「連座」という言葉を使うべきかどうかである。

「連座」を広辞苑で引くと「他人の犯罪事件に関係して一緒に処罰を受ける事、巻き添え、連累」との説明がある。昔の隣組や五人組のように、ある集まりの中で一人でも犯罪者が出たらその周りの人も一緒に処罰しよう、というようなそんなニュアンスを「連座」という言葉は持っている。政治資金規正法に関する昨今の不祥事は勿論そんなものではない。本人が何と言おうと、政治家の指示に従って処理を行った会計責任者が罪を一人で負っているように見えてならない。むしろ「巻き添え」を喰っているのは会計責任者の方ではないか。

「経理処理は全て任せていた」と政治家は仰る。もしそれが本当ならこの広い世の中、政治資金を横領する人が一人くらい出てもおかしくないではないか。内部監査が厳しい銀行ですらそうした事件は沢山起きているが、そうならないのは政治家の眼が銀行の内部監査以上に光っているからだろう。彼等が命よりも大事に思っているカネを他人任せにする訳がない。

連座制を導入すると、会計責任者が議員を陥れるためにわざと違反する可能性がある、なんて議論もある。よくそんな事を素面で言えたものだ。厳格な審査と身元確認の上採用され、任せっぱなしにされても横領しないような人がそんな事するものか。仮に百歩譲ってその人が議員を陥れようと出来心を起こしたとしても、その犯罪行為が議員本人の意思ではない事を証明するのは比較的容易な事ではないか。

政治資金規正法違反の責任を議員に問う言葉としては「連座」より「共同正犯」ないし「教唆犯」の方が当たっている。

2024年1月30日火曜日

政治と反社

 読売新聞では120日から4回にわたって「裏金 悪弊の果て」と題して自民党で派閥のパーティ券売上が裏金として使われた問題に関する特集を組んだ。それを読んで暗澹たる気持ちになったのは、政治がまるで反社組織であるかのような印象を持ったからだ。

例えば、「大臣ポスト目指し集金」なんて見出しがあった。多額のキックバックを受けて略式起訴された谷川議員は大臣になりたくて、パーティ券を沢山売って派閥にアピールした、というのだ。組織内での自分の存在をアピールするためお金を集めて上納する、なんて反社組織のやる事ではないか。大臣になりたいのなら、そのお金で情報を集め、見識を高め、政策・構想を提言する事で自分がその任に値する人材である事を示すべきではないか。農水大臣を目指すなら、全国各地の農村を回って実情を調査し、海外の成功事例なども見聞し、農業政策如何にあるべきかビジョンを立案するためにお金を使ったらどうだ。そういうお金なら献金も沢山集まるのではないか。

もっと深刻な問題だと思ったのは、献金額の公表基準引下げが出来ないのは献金する側が公表されたくないと思っているからだという指摘だ。政治家ないし特定の政治団体と親密な関係にある事を世間に知られたくない、なんてまさに反社組織とつながっている事を知られたくない心理と同じではないか。そう言えば、選挙の際に誰か特定の候補者に投票を依頼するのもされるのも何となく後ろめたさを感じてしまうのは何故だろう。アメリカでは特定の候補者への大口献金者が堂々と持論を展開しているというのに。

どちらが卵でどちらが鶏なのか分からないが、国民と政治の関係を根本的に見直さないと、政治と金の問題は永遠にこの国の宿痾として残るのではないだろうか。

2024年1月23日火曜日

誕生日

私事で恐縮だが、今日123日は私の誕生日である。年男として誕生日を迎えるのはこれで6回目、還暦を過ぎて丁度一回りした事になる。皆様、誕生日はそれぞれの思いで迎えられる事と思うが、私はいつも両親が話してくれた私の誕生秘話を思い出し、私を無事生んでくれた両親やこの世界に感謝の気持ちを新たにするのである。

72年前の今日、外は雪が降っていた。急に産気づいた母に、当時30歳の父はうろたえ、近所から借りて来た大八車に母を乗せて産院へ急いだ。大八車の詳しい構造を私は知らないが、なんでも車輪を固定するために楔のようなものを嵌めこむ必要があるそうだが、慌てていた父はそれを忘れてしまった。父が語るに、いつ車輪が外れてもおかしくなかった。そんな事になれば、母体はともかく胎児の命は間違いなく失われていただろう。

産院について母は帝王切開の手術を受ける事になる。逆子であったのか、それは以前から分かっていて父が慌てた理由もそこにあるのか、そうした経緯についてはあまり聞かされなかったが、手術の前に医師が言った事は何度も何度も聞かされた。「まず、お母さんの命が一番ですからね。赤ちゃんはまた出来ますから。」子供は死産となっても仕方ない、母体の安全のためなら他を犠牲にする覚悟で処置を行う、というのだ。だが、幸いここでも私の命は救われた。

生まれて来た私は未熟児で痩せ細り、大きな泣き声を上げる事もなく、母の胸に腹ばいになったまま乳首を口にくわえていたらしい。娘の容体を心配して見舞いに来た祖母が「こぎゃん子がホンネ育つだらか」とつぶやいた事も何度も何度も聞かされた。おばあちゃん、大丈夫、ちゃんと育ったよ。しかも72歳になってもピンピンしてて、毎週テニスで飛び跳ねてるよ。

 

2024年1月16日火曜日

メール

 関東地方は年末・年始と穏やかな好天に恵まれ、能登の被災地の皆さんには申し訳なく思う程だ。年末最後のテニスは年の瀬も押し詰まった29日に行ったが、隣のコートでは大学生と思しき若者達が半袖でプレーしていた。雪も降るなら平穏無事な生活をしている場所に降れば良いものを。何も、住む場所をなくし暖房のすべも乏しいなか震えながら不安な時を過ごす人々の上に降る事はないだろうに。

時が経つにつれ地震の被害の実態が明らかになり、今回の地震の大きさと特異性に驚かされる。約30年前、阪神淡路大震災の時は自分の生涯の内、二度とこんな大きな震災には合わないだろうと思った。だがその後、東日本大震災があり、熊本地震では大きな揺れの後にそれに劣らぬ大きさの余震が来るという事を経験し、そして今度の地震では今まで見た事もない地盤の隆起があった。阪神淡路以前には耐震工学の進歩を誇らしく思っていたが、人間の慢心に警告を発するかのような地震が続く。

そんな中こんな呑気な事を書くのは少し気が咎めるが、この正月に気付いた事の一つがメールによる賀状交換のメリットについてである。数年前から親しい人を中心に葉書でなくメールに添付する形で年賀状のやり取りをする事を提案しているが、今年はだいぶそれが定着して来た。ある人は直ぐに返事をくれ、その時思ったのだ。メールのメリットは直ぐに返事が出せる事だ、と。

年賀状に近況について何か気になる事が書いてあった時、勿論葉書でも問い合わせをする事は理論的には可能だが、結構ハードルが高い。だが、メールならクリック一つですぐに様子を聞ける。通信の目的は互いの状況を知る事なのだから、その垣根がうんと低いメールがもっと使われて良いのではないかと思った次第。

2024年1月9日火曜日

地震

 元日、朝方強かった風も収まり午後になって好天気の中、窓際の日溜りに脚を投げ出しウトウトしていると突然のけたたましいアラーム音に叩き起こされた。緊急地震速報、慌ててテレビのスイッチを入れ情報を確認しながら揺れに備える。しばらくすると船に乗っているかのようなゆっくりとした揺れが襲ってきた。

テレビの地震情報が伝える各地の震度情報に驚いた。震源地の能登半島を中心に震度3以上の場所がほぼ本州全域に広がっているではないか。北は青森から南は山陰地方や四国まで。これ程広範囲に影響を与えた地震が今まであったろうか。東日本大震災でも大きな揺れは関東平野の西までだったように記憶する。M7.6だから地震の大きさそのものはM9だった東日本大震災の約百分の一程だが、揺れの周期の長さと範囲の大きさについて何らかのコメントがある筈と思ったのになかったのが不思議だった。

津波に関する報道も不思議だった。各地の津波到達予想時刻とその高さが報道される中「津波到達か」との文字が見える。津波って到達したかどうか分からない状態があるのだろうか。高さ10㎝の津波、と言うのも不思議だった。10㎝なんて台風で荒れ狂う海に比べれば可愛いものだ。それも津波というのか。一般庶民の感覚と気象庁の感覚にどこかずれがあるのではないか。「逃げて下さい」と絶叫するアナウンサーの声を聴きながら、そのずれが気になって仕方なかった。

大きな余震が何度も続く事は2016年の熊本地震で経験済みだが、「こんな事は今回が初めてです」というコメントを何度か聴いた。地球が誕生して数十億年の間には同じ事が何度も繰り返さているのだろうが、我々のせいぜい千年の記録では初めてというだけだ。これからもきっと初めての事が沢山起きるに違いない。