2016年11月15日火曜日

泡沫候補

米大統領選挙はトランプ氏の圧勝に終わった。獲得票数はともかく接戦州のほとんど全てで勝利した結果は圧勝と言っていいだろう。当初共和党大会すら勝ち抜けないだろうと見られた泡沫候補の勝利はただただ驚きの一言に尽きる。
クリントン氏ともトランプ氏とも直接会ったことのない我々はマスコミを通じてしか彼らの実像を知ることが出来ない。マスコミは不偏公平な報道をしているのだろうか。例えばフィリピンのドゥテルテ大統領。彼のオバマ大統領に対する発言が日本語の字幕で「地獄に落ちろ」と紹介されている。だが実際の発言を聞くと「You can go to hell」であって、客観的に訳せば「地獄に落ちたっていいんだよ」という程度の感じではないか。地獄という言葉自体不謹慎だが、日本語の字幕は必要以上に意識的にドゥテルテ大統領への敵意をかきたてようとしているようにも見える。
ある外国人ビジネスマンはネットへ次のように書いている。
「日本のマスコミは米国マスコミ以上に既得権益にしがみづき権力志向なので、米国マスコミ以上に世論作りに熱心なのです。また残念ながら日本のマスコミは日本国民の人の良さを利用してかなりの高い確率で世論操作に成功してきました。だから今回の米国マスコミの成功を信じて止まなかったのでしょう。マスコミと一体になって操作してきた安倍総理もヒラリーと米国マスコミの成功を信じて止まなかったでしょう。」
実際のところはよくわからない。我々にできることはマスコミの評価を盲信するのでなく、事実のみを冷静に見つめることだ。トランプ氏がどんな人か知らないが、女性蔑視の発言をしたことは事実に違いない。それでも米国民はトランプ氏を選んだ。よほどクリントン氏が嫌われていたという事なのだろうか。

2016年11月8日火曜日

三浦九段

将棋ファンならずとも最近三浦九段の名前を耳にされた方は多いのではないか。対局中、不必要に離席が多いとして、スマホソフトで次の一手を考えているのではないかとカンニングの疑いをかけられ年内の対局禁止を言い渡された人だ。
渦中の三浦九段の言い分は「別室で休憩していただけだ」との事。将棋のプロは次の一手を考える際に眼前に盤がある必要はないから(当コラム第二三三回参照)三浦九段の言い分もあながち否定は出来ない。
囲碁は盤面が広いせいか盤なしで全部を頭に入れることはプロでも難しいようだ。持ち時間のルールの違いがそれを物語っている。
プロの試合に於いては次の一手を考える時間に制限がある。それを持ち時間というが、それを使い切ると時間切れ負けになる。ただし考慮時間は一分以下は切り捨てされるため、例えば持ち時間六時間の場合に五時間59分使うと次の一手は常に一分以内に着手しなければならない。トイレに行く時間も考慮時間と同じように時計の針は止まらないが、ここで将棋と囲碁とではルールが違う。
将棋の場合、相手の考慮時間中にトイレに立った場合、相手が着手するとその瞬間に自分の考慮時間のカウントが始まる。だからそこから一分以内に帰って着手しなければ負けになってしまう。囲碁の場合は同様の場合相手が着手しても、自分が席に戻るまでは時計を止めてくれる。自分が着席してからカウントが始まるので安心してトイレに立てるというわけだ。勿論自分の手番の時にトイレに行けば時計の針は止まらないが。
将棋で囲碁と同じルールを適用すると、終盤時間が欲しい時に不必要にトイレに立つ人が出てしまうかららしい。将棋のプロはトイレに行く事にすら気を使わないといけない。三浦事件はその事を思い出させた。

2016年11月1日火曜日

職務規定

松江市下水道局の職員が児童買春をした疑いで逮捕されたとのニュースに出くわした。上司の記者会見を見て驚いた。「改めて職務規定遵守の徹底に努めて参りたいと思います。」のような事を言うのだから。
下水道局の職務規定には「児童買春をしてはいけない」と書いてあるのだろうか。多分、いや間違いなく書いてないだろう。「刑事罰を受けるようなことをしてはいけない」とすら書いてないと思う。規定に書かれることはそれを明記しておかないと組織運営上支障をきたすような事柄だ。
太平天国の乱を起こした洪秀全は次のような軍規を定めたそうだ。
 一)命令に従え
 二)男軍と女軍とを分けよ
 三)いささかも犯すな
 四)協調して指導者のきまりを守れ
 五)力をあわせ、ひるんだり退いたりするな
こうした軍規を定めたところを見ると、命令に従わない者や略奪や暴行をする者や逃亡する者が沢山いて困っていたのだろう、という事が想像される。洪秀全も組織の維持には苦労したようだ。
だからもし職務規定に「児童買春をしてはいけない」なんて書いてあったら、それこそその組織は大変な問題を抱えていることになる。
そもそも五十にもなる大人が犯した犯罪で職場の上司が会見をする事自体いかがなものかと思う。職務上の不注意や不手際で回りに損害を与えたのならともかく、成人個人のプライベートな行動に組織がどこまで責任を問われなければならないのか。会見を求める方も求める方だが、やるのなら仕方ない「大変遺憾に思いますが勤務時間外の個人的行動は各人の責任範囲で行われていると認識しています。」なんて答えたら集中砲火を浴びてしまうのだろうか。

2016年10月25日火曜日

浦上玉堂

浦上玉堂という人がいる。江戸後期の文人で、備前池田藩の支藩の君主側近として藩政にあたっていたが、大目付役を罷免されたのをきっかけに二児を連れて脱藩。全国を遊歴しながら琴、絵画、詩作を楽しんだ。その絵は水墨画でありながらなかなか賑やかな絵で独特の雰囲気がある。数週間前NHKの日曜美術館での放送からの引用になるが以下のような事を言っていたそうだ。
人は名誉と利益を楽しむが 私は酒と琴とを楽しむ
 人は富と高い身分を好むが 私は酒に酔って詩を詠うのを好む
 粗末な食事でも空きっ腹よりいい おんぼろな家でも露天よりいい
 人生満足するということを知らなければ煩悩がなくなることはない
お金や名誉は要らないよ、と言いたいらしいが、ここに友情や愛情など人との交わりの喜びについての言及がないのはどうしてだろう。
私個人も特別豪華で綺麗な衣装に身を包みたいとは思わないし、特別贅沢な美食を楽しみたいとも思わない。衣類は寒さから身を守る事が出来れば十分で、食事は栄養失調にならなければそれでいい。それより何より同性であれ異性であれ敬服・憧憬・素敵の言葉が似合う人物に出会え、しかもその人が誠意を持って談笑に応じてくれたらそれ以上の喜びはない。
そうした出会いはお金では買えないし、誠意を基盤とした関係を構築するにはお金はありすぎるとかえって邪魔になりそうだ。お金は凍え死にしない、飢え死にしない程度にあればいい。出来れば酒に酔って詩を詠うくらいあればそれに越したことはないが。
浦上玉堂が二児を連れて脱藩した時既に奥さんは亡くなっていた。彼の異性を含めた交友関係は全国遊歴の中で満足できたのだろうか。それとも琴棋書画を通じて時空を超えた交流を楽しんでいたのだろうか。

2016年10月18日火曜日

文学

NHKのラジオ番組にカルチャー・ラジオというのがある。歴史、芸術、文学、科学の四つの分野で週に一回三十分の講和が三ヶ月毎にテーマを変えて放送される。文学は木曜日だが何回か前にボブ・ディランが取り上げられた。その時は最初の二回ほど聞いてあまり面白くなかったので以後聞くのを辞めてしまったが、今から思えばもう少し辛抱して聞いておけば良かった。
十月から鴨長明がテーマになっているが先月まではマーク・トゥエインだった。これは面白かった。今回のボブ・ディランのノーベル賞受賞は人種差別撤廃運動への影響も受賞理由の一つのようだが、この分野ではマーク・トゥエインの書いたものの方が心に響く。興味ある話題があるのでご紹介しておく。
マーク・トゥエインの代表作の一つに「ハックルベリー・フィンの冒険」がある。主人公のハックは凶暴な父から逃れるために身を潜めている時、逃亡奴隷のジムと出会う。社会に背を向けるという共通の環境にある二人は友情を育みながら北部の自由州を目指して筏で川を北上する。だが、自由州が近づくにつれてハックは自責の念に捕らわれる。それは何と、ジムを告発しなければならないという思いだ。当時南部には逃亡奴隷をかくまったり援助することは罪だという法律があった。それを知っているハックは今ここでジムを当局に突き出さなければ自分が永遠に罪人の刻印を押されてしまうと悩むのだ。ハックのそうした心を察知したジムの態度がまた涙を誘う。
この作品には普段はこよなく親切でやさしく信心深いおばさんが、こと黒人に対しては冷酷無比な態度をとってしかもそれが正義であると思っているような場面もあるようだ。ある社会環境では世間的良識が必ずしも人間の善を反映しない。常に心すべきことだろう。

2016年10月11日火曜日

引越しのススメ

葛飾北斎は生涯で93回の引っ越しをしたそうだ。絵に熱中するあまり部屋の片付けなどに気が回らず、部屋が汚くなると引っ越しをしたとか言われるが、一方で一日三回も引っ越しした事があるとも言われるから真の理由はよく分からない。
私も最近引っ越しをして、これはなかなか頭の体操になるなと思っている次第。それまである一定の秩序の中で生活していたものが、全く異なる環境の中で別のルールに従って生きることになる。要するに簡単な言葉で言えば、物がどこに仕舞ってあるのかが今までの感覚とは違う場所になるので、それが脳を刺激するのだ。
親が生前に買い溜めてた石鹸があるはずなのに見つからない。以前は洗面台の横の洗濯機の上の棚にあった。引っ越し先には洗濯機の上に棚がないから別の場所にそれなりの理由で仕舞ったはずが、その理由が思い出せない。異なるルールに柔軟に対応する能力を試されているようだ。また探していたものが見つかった時の喜びもおそらく大いに頭脳を若返らせてくれるだろう。
家の引っ越しも随分と頭の体操になるが、もう一つのお勧めがスマホの引っ越し。
普通ビジネス界では長い付き合いを大切にするのが常識だが、スマホの世界では新たに乗り換えると有利な条件になるようになっている。番号やメールアドレスが変わってしまうのを恐れる人が多いから、それに胡座をかいた商売のように見える。それに乗ってしまうのが悔しいから敢えてスマホも引っ越しする事にした。機器自体が新しくなって画面が大きくなってデータ通信量が倍になってなお月々の支払は少なくなる。ただこれも従来と異なるルールを強いられる。操作方法が微妙に違うのでそれに慣れるのが大変だ。
家もスマホも引っ越しでアタフタする今日この頃である。

2016年10月4日火曜日

同一労働同一賃金

「同一労働同一賃金」の文字を報道で見るたび若干の違和感を覚える。元々この言葉は男女差別の撤廃を目指して発せられたものだった。同じ労働をして同じ結果を出すのに女性だというだけの理由で賃金が低く抑えられているのはおかしい、というのは誠に全うな意見だ。だが昨今の使われ方を見ると正規・非正規の格差を問題にする場面が多い。これは如何なものか。経営工学的見地からの愚見を述べてみたい。
そもそも「非正規」とは何か。正規社員と外見上の業務形態が特別違う訳ではないのに不当に不利な条件で採用されている事だとすると、それは理論上あってはならない事で議論の俎上に上らない。ここでは業務量に応じて正規社員の能力を補完するために期間限定で採用される人を指すことにしよう。
経営工学の一つのテーマに能力設定がある。例えば生産設備の能力をどう設定するか。需要の大きさに応じて決めるわけだが、問題は変動する需要への対応である。設備能力が小さすぎれば注文に応じきれず、需要のピークに合わせれば多くの場合設備が遊んでしまう。通常はピークの八割程度の能力を用意し最盛期には外部の支援を仰ぐ事にする。そして外部委託する場合のコストは内作するより高いのが普通だ。
さて、人間の神聖なる労働力を生産機械設備と比較するなんてけしからん、とお叱りを受けるかも知れないが、非正規労働は上記の需要のピーク対応と考えるのが至当ではないか。だとすれば非正規労働の時間単価は正規労働の時間単価より高くて然るべきだというのが私の意見なのである。

そもそも働き方の選択肢を提示するに当たり、一方は安定しているが単価は安い、一方は単価は高いが不安定、というトレードオフがない限り検討の余地もないではないか。