2018年9月18日火曜日

大坂なおみ

テニスファンとして今週はこの話題を取り上げないわけにはいかないだろう。テニスファンではない人でもそれに異存はないはずだ。全米オープンテニス大会での優勝、本当に素晴らしい快挙だった。決勝戦の日は近くに住む娘が孫を連れてWOWOWでの生中継を見に早朝五時から我が家にやって来た。
決勝戦は全く危なげない完勝と言っていい内容だった。見ていて一番心配したのはベスト8を賭けて戦った対サバレンカ戦。第二セットを奪われた時は例の精神的弱さが出てしまったのではないかと心配した。その時以外今大会の大坂選手のプレーを見て特に感銘したのはその冷静さだった。
優勝後のインタビューでの発言「一番大切は、なんか・・我慢」という言葉に今大会の大坂選手の成長を見た。今まではとにかく強打。勝敗より強打とでも言うように強打して相手の鼻を明かすのが彼女の目的であるかのようだった。昨年の全仏オープンで同僚のオスタペンコが優勝し、グランドスラム制覇に先を越されてからは対抗意識からか余計に力が入っていたように見えた。だが今年の全米は違った。
強打でエースを取る事はたまらない快感だが、試合に勝利する喜びはより尊く、そのためには地味な努力が欠かせない。それに大坂選手が気付いたような気がする。「我慢」なんて普通はつまらないものだ。思いっきり我を通したい、思いっきり派手に振舞いたい。だけどそれを我慢し自制し冷静に事に対処する。それが出来るためには自信が必要だ。大坂選手は「自分に自信を持ち続ける事」を心掛けたとも言っている。
518回に紹介した黒澤映画・椿三十郎に出てくる「本当に良い刀はいつも鞘の中に収まっているものですよ。」の台詞を思い出す。大坂選手は自らの名刀を振り回すのではなく鞘の中に収める術を知ったのだ。

2018年9月11日火曜日

夏のスポーツ


編集の関係で全米オープンテニス大会の女子決勝の結果を見る前に出稿しなければならないのが残念だ。
今年の全米オープンは例年以上に暑かったようだ。優勝候補の一角フェデラー選手は暑さのせいもありベスト16で姿を消した。試合後のインタビューでは会場の暑さに苦言を呈し、試合が終わった時にはほっとしたとも言っていた。テニスの主な大会は夏、暑い時期に行われる。テニスは夏のスポーツでいいのだろうか。
スポーツは基本的に激しく体を動かすのが一般的だから暑い時に行うのは向いていないように思われる。水泳のように水の中で動くものや、野球のように投手以外は動く機会が少ないような競技は別にして。サッカーやラグビーの天皇杯が冬に行われるのは選手の体を考慮してベストの状態でプレーが出来るようにとの配慮からだろう。
テニスの主要な大会がどうして夏に行われるようになったか、それは試合時間に関係しているのではないか。サッカーやラグビーのように試合時間が予め決まっているものは終了の時刻を相当正確に予想できる。だがテニスや野球のように試合時間に大きな変動があるものは終了時刻が予想できない。昔まだナイター設備がない時代には試合が長引いて暗くなっては困るので日没の遅い夏の時期に行って、それが慣習として今につながっているのではないだろうか。今や日没も気にせず試合が出来るのだから選手が思う存分力を発揮できる涼しい時期に大会を開くべきだと思うがどうだろうか。普段では考えられないような凡ミスを繰り返すフェデラー選手など見たくない。
東京オリンピックでのマラソン競技の暑さ対策が話題になっている。これもマラソンは冬のオリンピックでやれば済むことではないか。夏冬オリンピックの固定概念を外したらどうか。

2018年9月4日火曜日

カラオケ

テレビの某クイズ番組で「カラオケ」は何の略かという問いに五十前後の出演者は二人とも答えられなかった。思い起こせばこの言葉は私が社会人となった頃、昭和五十年頃から一般的になったように記憶する。その黎明期に立ち会った者にとってそれが「空のオーケストラ」の略であるのは自明だが、その頃まだ小学生にもなるかならないかの人には難しかったようだ。
当時はカラオケ専門店もなく、その装置を備える事が飲み屋さんの集客手段でもあった。曲数も少なく、定番の小林旭や三橋美智也など毎回同じ唄を歌っていたものだ。今では曲数も飛躍的に増え、洋楽でも、懐メロでも何でも揃っている。私は多感な頃を思い出しながら三田明の「美しい十代」や安達明の「女学生」などを努めて歌うようにしている。
あるカラオケ仲間から昭和初期の唄を集めたCDをお借りした。それを聴いて当時の唄の斬新さに驚いた。「アラビアの唄」やディック・ミネの「ダイナ」など今聴いても新鮮だ。そんな中「もしも月給が上がったら」という面白い曲に出くわした。
昭和十二年の発売らしいが、当時の世相が分って面白い。「もしも月給が上がったら私はパラソル買いたいわ、僕は帽子と洋服だ」パラソル(日傘?)が女性の憧れで、男性の所望が帽子であってネクタイでないのが面白い。「お風呂場なんかもたてたいわ」ともあるからお風呂がないのは普通だった。
付随する解説を読むと「昭和初期の長い不況の間、給料は上がるどころか下げられた」とある。世界大恐慌から続く不況下で戦争の影が大きくなる中「ポータブルを買いましょう、二人でタンゴも踊れるね」とも歌っている。タンゴを踊るなんて、なんとモダンな夫婦なのだろう。二・二六事件や盧溝橋事件の頃の庶民の明るさに感心した。

2018年8月28日火曜日

基本

アジア大会の女子バドミントン、中国を破っての優勝に喝采した。見ていて感心したのは選手が皆基本に忠実だという事だ。
バドミントンのダブルスの場合、攻撃の時はトップ・アンド・バック、防御の時はサイド・バイ・サイドがポジショニングの基本だ。相手コートに強い球を打ち込んだり、ネット際に低い球を落とした時には縦に前後に並び、逆に高い球を返した時はさっと左右に陣取る。それを素早く繰り返す選手たちの動きを見ていると実に気持ち良い。
そして足元を見ていると、小さいながら必ずスプリット・ステップをやっている。これはあるタイミングで両足をチョンと上げる動作で、テニスのプロ達も必ずやる。そして当然のように、球を待つ間は常に足を動かし、打つ瞬間はしっかり足を止めて打つ。
そうした基本動作が無意識の内に自然に出来るようになる事は勝利の必要条件なのだろうが、我流でやってきて基本の出来ていない私などはなかなかそれが出来ない。スプリット・ステップの重要性を頭では分かっていても体が動かないし、足を動かさなければいけないとき足が止まって、足を止めて打たなきゃいけないとき足が動いている。
人生というゲームにおいてはどうだろうか。
人生のゲームは如何に幸せになるか、を争うものだと思っている。そして幸いそのゲームはゼロサムゲームではなく、回りにより多くの幸せを与えた人が勝利するような仕組みになっているらしい。そのゲームにおける基本は何か。おそらくあまり贅沢をしない、他人を不快にしない、などがあろうが、全く逆に不必要に威張り散らしたりしてないか。
ボランティア活動に活躍する尾畠春夫さんを見て、ひょっとしたらこの人はそうした人生というゲームの基本をきちんと会得した人なのかも知れないと思った。

2018年8月21日火曜日

自他の境目

善悪や価値判断だけに限らず、何事でも境目というものはそんなに明確なものではないようだ。
一番はっきりしていると思える自分とそれ以外の境目でさえそうだ。これほど明確なものはなかろうに、よくよく考えてみると結構曖昧だ。
目の前にコップ一杯の水がある。これは確かに自分ではなさそうだ。だがそれを口に含んだらどうだろう。飲み込む前で、まだ吐き出すことの出来る状態ならまだ自分ではなさそうだが、飲み込んだらどうか。食道の中をすべり落ちる水は自分かどうかかなり曖昧だ。胃まで到達して体内に吸収されたら、流石にそれを自分ではないとは言い切れまい。
出る方だってそうだ。小便はいつから自分でなくなるのだろうか。膀胱に蓄えられている時はもう自分ではないような気もする。腎臓の糸球体で血液が濾されて尿になった時、自分でなくなったと考えるべきだろうか。汗はどうだろう。髪の毛はどうだろう。爪はどうだろう。垢やフケはどうだろう。
目には見えないが空気中を飛び回っている酸素分子は次の瞬間呼吸によって肺の中に入って、数秒後には自分の体の一部になっているかも知れない。
人間の体は60兆個の細胞からできているらしいが、その細胞は75日から3ヶ月で入れ替わるそうだ。自分の体と言っても物質的には半年前とは全く別物になっているわけだ。自己とは宇宙という大きな溶液の中に出来た煮凝りのようなもので、死んだ後にはまた溶けて個々の原子は宇宙のどこか別の煮凝りの一部になっているかも知れない。
テレビの某番組での聞きかじりだが、華厳経は「世の中のあらゆるものはつながり合い、そこに個々の区別はない」と説いているらしい。この考えを突き詰めればいくらかでも死の恐怖から逃れられそうな気がするがどうか。

2018年8月14日火曜日

境目

善悪の境目はどこにあるのだろう。
日本ボクシング連盟の前会長は「自分は何も悪い事はしていない」と仰った。告発者達は全く別の見解を持っているはずだ。刑法を善悪の境目にすれば、確かに判定に依怙贔屓や手心を加えることなど、法に触れる訳ではなさそうだ。だが一般には倫理や矜持など、より厳しい境目を自分に課している人の方が多いだろう。ただ、自分が反省する時と、他人を批難する時とで境目が変わってしまうのは人間の性として仕方ない事か。
マイケル・サンデルの白熱教室で面白い議論があった。企業が社員を採用するに当たって見た目を基準に選考するのは許されるのか。例えば飲食店などの接客業が、より多くのお客に来てもらうため可愛らしい女性を優先的に雇うのは道義的に許されるのか。多くの受講者が企業は利益追求が目的でそれは仕方ないとの考えを示したが、人種を理由に採用の可否を判断することには殆どの人が反対した。見た目による差別は良いが人種による差別はいけない、その境目は何だろう。
普通採用試験は筆記試験で一定の知識や能力を確認し、面接によって意欲(と見た目?)などを確認するが、そもそも知識や能力の方が見た目より重視されるべきだという考えはどこに根拠があるのか。人種や見た目など本人の努力ではどうしようもない所で選別するのは不公平だという意見が多かったが、しかし知識や能力だって生まれながらの要素がかなりあるではないか。これだって境目がよく分からない。
白熱教室の議論を聞きながら思った。古今多くの人が恋人選びに際し見た目を基準にしてきて、それが批難されるのを聞いた事が無い。見た目重視が恋人選びの時は許されて、企業の採用の時には許されないとしたら、その境目はどこにあるのだろう。

2018年8月7日火曜日

改竄・書換・訂正

お役人さんとは随分とつらい仕事のようだ。余計な忖度などせず、自分の信念に従って仕事をすればよいのに、と思っていたし、当コラム508回にも「出世に影響はあろうが、命までとられるわけではあるまいし」と書いた。ところが、命まではとられないにしろ、刑務所にぶち込まれるくらいは覚悟しないといけないようだ。
文部科学省が汚職事件で揺れている。事務次官室も捜索対象となり、幹部の中には公用、私用の携帯電話を押収されて荒探しをされている人もいるらしい。確かに接待を受けて、業務に便宜を図るのは良くない。しかし、宇宙飛行士を講演会に派遣するよう便宜を図る事より、公文書を書き換えてしまう事の方がどれだけ悪質、かつ国益を損なうか言うまでもない。
それなのに一方は逮捕起訴され、一方は全くお咎めなし。逮捕されたのはかつて喜平隊の一員、前川喜平氏に近い人だったとも聞く。俺に逆らったらどうなるか見ておけ、とでも言うのだろうか。
文藝春秋の最新号では中村喜四郎氏の「安倍恐怖政治が自民党をダメにした」という記事が載っている。そこで彼の曰く「我々は今『この六年間が日本を変えてしまった。』と後の世代に疎まれるほどの忌まわしい歴史の渦中にあるのです。」と。これが単なる杞憂に終わる事を祈る。
財務省の文書は改竄か書換か不毛な議論があったが、今回のは純粋な訂正です。最近ある熱心な読者から過去のものも含め誤字の指摘を受けました。それをここに訂正させて頂きます。
571回下段本文左から四行目。私を一緒に私と一緒に
358回上段左から三行目。八ちぁん八つぁん
221回中段中央右から三行目 scholl→school
既にお気付きの方もいらっしゃるかも知れません。今後このような事のない様注意します。